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読解力の測定

時間をかけずに読め?

 読解力の低下はここ数年我が国の教育界が危惧するものである。しかし、この読解力にもいろいろあって、速読力に左右されるものとより深い読みを要求するものとがあるように感じる。後者の方面に対する手当が十分てはないことを注意したい。

 例えば共通テストの国語は明らかに問題が多すぎる。ここで求められているのは深い読みではなく、いわば情報処理能力だ。要領よさと手際の良さが主に測定されているといってよい。しかし、こうした能力はAIなどにもっとも代替されやすい分野だ。これを国語科で試す必要はないのではないか。

 共通テストに限って言えば、時間を増やすか問題数を減らすかのどちらかをまず行うべきだ。次により深い読解を求める設問を考えていくのがよい。その結果、平均点が下がっても意味があるはずだ。

 センター試験時代から国語の情報処理能力測定志向は疑問であった。共通テストになり文学的な文章が減るとか、契約書のような実用文書を読むようになるとかいろいろな懸念事項があった。それらはいまのところ大きな変化はなかったものの、時間の割に問題が多すぎるという難点は強まってしまった。

 国民の読解力を底上げしたいのならこのような出題は止めたほうがいい。時間をかけて考えるより、とにかく速読とそのためのテクニックへの関心ばかりが高まるだけなのだから。

気持ちを込めて文法学習

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 Youtubeで英語学習について述べているものを見て参考になったことがあるので記録しておく。英語の習得の際、やはり文法学習は必要だが、それを型で覚えるのがいいという。さらに覚える際には感情をこめて文を記憶するのがいいらしい。

 言葉が情を表すものである以上、これは当たり前のことだ。にもかかわらずあたかも数式のように文章の型を覚えてもなかなか身につかない。その表現がどのような場面で使われ、どのような感情とともに述べられるものなのかを意識することが大切だというのだ。全くその通りである。

 古文を学習する際にも同じことが言えるのではないかと考えている。たとえば現代語には過去と完了の助動詞の区別がほとんどない。「昨日着いた。」も「いま着いた。」も同じ「た」で表現されるから、古典語に「き」「けり」と「つ」「ぬ」「たり」「り」の多彩な助動詞があることが理解しにくい。「なり・に・けり」のように完了も過去も同時に使われる文に至っては意味をつかみにくい。そこで、感情とともに記憶するという方法がよいと思われる。

 この方法を教えるためにはショートコントのような場面設定を作り、実際に演技させるのがいいのではないか。「夏は来けり」と「夏は来ぬ」の違いを演技で覚えてもらうのだ。これができれば推量系の多彩な助動詞群の差や、現代語以上に微妙な使い分けをする心情表現語の違いなども実感して覚えることができるかもしれない。そのための「台本づくり」が大切だと思っている。

気持ちの説明

小説を教えることに意味はある

 国語の問題の笑い話に、登場人物の気持ちを答えさせる問題というものがある。作者自体が答えられなかったというエピソードとともにこの種の設問を揶揄するものである。

 小説の世界は作品全体を通して形成される。それに対して国語の問題文は短く、切り取られた場面の中だけで完結させなければならない。多面性のある人物像のある一面だけが切り出され、その部分が強調される。そこを質問のポイントに設定すれば全体像を創造した作者の意図しない人物像が出来することもあり得る。

 人物の気持ちを問う問題の難しさはこのような点にあるが、それでもこの行為自体は避けるべきではない。人の気持ちという目に見えず曖昧さを含むものを言葉で説明することはこれからの時代に求められる能力の一つだ。他者との協働が不可避不可欠な今日の状況において、心情を察することは大切だからである。

 だから、登場人物の気持ちを問うことはこの力の養成に繋がるものと考えるべきだ。小説の精読はその機会としてふさわしい。新しい高校の指導要領で文学が軽視されてしまったのは残念だ。現場の教員はうまく立ち回るべきだ。文学作品を読ませることに躊躇すべきではない。

新聞

新聞とっていますか

 教科書の単元に新聞の投書を書くというのがあった。念のために家で新聞配達を頼んでいるのか聞いて見るとクラスの四分の一くらいがとっていないと答えた。私の常識は通用しないことが分かった。

 比較的裕福な家庭からの通学者が多い学校でこの有り様だから、実は新聞の宅配率はかなり下がっていると推測する。もっともほとんどの家庭が新聞を購読する国は実はそれほど多くはないという。ネットニュースなど報道に触れる機会はいくらでもある。無理にとる必要はないということなのだろう。

 すると投書というものがイメージできない生徒が相当数いることになる。部分的で扇情的なコメントが投書と混同されている可能性は高い。自分の意見を読者を意識して書くということは、難しい行為ということになる。

 国語の教員の出番はまだありそうだ。

違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。

述べて作らず

 

 述べて作らずというのは論語以来の中国の教えの一つである。事実を述べることはしても創作はしないという精神論だろう。果たしてこれは今どのようになっているのだろう。

 中国の古典文学、つまり漢文の世界では創作はあくまで二次的な行為であったようだ。漢文に史伝は多いが小説のような虚構の文学は少ない。寓話的な話はあっても現実の例え話として語られる。

 だから、漢文の世界では作り話は忌まれる。本当にあったこととして語られる。創作に対する評価が低かったのだ。これが中国文学に小説的の誕生を遅らせることに繋がっている。

 最近の中華ドラマや韓流ドラマの歴史をみるに史実との乖離が甚だしい。歴史はモチーフの一つにすぎず、いくらでも改変が可能だ。述べて作らずの伝統はどこにいったのだろう。対して日本歴史ドラマは史実との比較にうるさい。史実とは異なるというクレームを本気になって言う輩が一定数存在する。

 創作を嫌っていた儒教国と創作に熱心な日本の国民性との比較を私たちはしておくべきだろう。

文語になれる機会

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 子供のころにテレビから時々流れてきた「誰か故郷を想わざる」という曲は印象的だった。なぜ「たれか」なのか、「ざる」とはなにかなどと少し疑問に思ったがそれ以上は考えずまねして歌ったこともある。今考えると文語を覚える機会は国語の時間だけではなかった。

 小学校でも文語を覚える機会はあった。音楽の時間には「故郷」や「早春賦」を習ったが今考えるとかなり難しい文語だ。「兎追ひしかの山」とあっても「ウサギ美味しかの山」ってなにか。そもそもウサギは食べられるのか。「かの山」とはどこにあるのか、どんな字を当てるのか、などと考えた。「春は名のみの風の寒さや」に至っては「なのみの」とは何かが分からず、「時にあらずと」もなんだかよく分からなかった。教師が説明してもピンとくることなく、ただメロディのままに歌うことに終始していた。そういえば「箱根の山は天下の嶮」はケンがなにか分からず歌っていた。「羊腸の小径」などわかるはずがない。

 それでも歌から覚えた文語はかなり多い。その当時は意味が全く分からず誤解をしていた。落語「千早振る」のようなこじつけも起きる。それでも文語の調べは身につき、意味が分かるようになるとさまざまな再発見がなされる。「げにいっこくもせんきんの」が「実に一刻も千金の」と分かったとき、まさに千金の価値を感じるのだ。

その意味で文語の歌を子供の時に聞いておくのは無意味ではないと思う。古典など学習するに値しないと豪語する自称知識人もいるが、自国の言葉の深みを捨ててしまうのは大きな財産を失うことにつながる。目先で日進月歩の技術のうわべだけ学んですぐに使い物にならなくなってしまうのとは異なる。古典の知識を身近に感じられるようにするためには文語の感覚は不可欠であり、そのためには知識がいる。それを身につけるのに文語の歌は役に立つと考える。

暗唱

読む、覚える

平家物語の冒頭を覚えさせられた記憶は多くの人と共有するはずだ。意味は後まわしでとにかく声に出して言えることが求められた。これには実は一定の意味があった。

 中学生のときに例の祇園精舎の暗唱が課された。覚えたものを教員の前で言わなくてはならない。職員室の片隅で行った。他の教員の視線を時折感じながら盛者必衰の理を語ったのは思い出に残っている。

 高校では社会科の教員に藤村操の巌頭之感を暗唱することが課された。なぜ遺書を教材にするのかまったく理解不能だった。テストにも出た。教員の趣味が出ていたのだろう。

 文語を覚える機会は限られている。品詞ごとに文法を教える伝統的な方法は、古文や漢文訓読には不可欠だ。ただ意味もなく覚えろと言われてもなかなか頭に入らない。入ってもすぐ抜ける。なんからの別のアプローチがいる。その一つが文章の丸暗記だ。

 意味はあとからでいい。とにかく古文の調べを体感させること。それには暗唱は一定の効果がある。

教室に映写する教材は

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 勤務校ではここ数年、教室のデジタル化が進んでいる。すでに黒板はなく、ホワイトボードはプロジェクターから映写されるスクリーンにもなる。数年前とは雲泥の差だ。ただ、これまでやってきていくつかの注意点があることに気づいた。

 これまで黒板に書いてきたさまざまな情報、これを教員用語では板書というが、これをスライドであらかじめ作成することができる。よいことはあらかじめ仕込むことになるので、授業計画がより綿密に行えることだ。授業の展開を見越してスライドを作るからである。図解や写真なども簡単に行える。例えば夏目漱石の作品にはこのようなものがあって…などと説明するときはこれまでは副教材を開かせたり、プリントを作成して配布したりしていた。それがスライドでできるのだから、時間的にも資源の節約という観点からもいい。

 しかし、悪いこともある。私は縦書きの表示をする手前、パワーポイントなどのソフトを使ってスライドを作る。やったことがある方はわかると思うが、手書きよりはるかに多くの情報が入る。それは素晴らしいのだが、中等教育の現場においては詳細情報は選ぶ必要がある。なんでも載せていると生徒はそのどれが大切なのか分からず、ひたすら写そうとする。写さなくていいというと今度は注意力が散漫になる。電子教材ならでは問題点が発生してしまう。

 手書きのもっている微妙なニュアンスも電子化すると伝わりにくくなる。便利さと、教育効果は必ずしも相関しない。最近の研究によれば電子書籍よりも紙の本の方が、キーボードで入力するよりは手書きの方が学習効果が上がるという。長年人類が培ってきた学びの習慣はそう簡単に変えられるものではない。長谷川嘉哉「脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効だ」(東洋経済オンライン2019/11/19)

 教育現場においては単純にデジタル化をまんべんなく押し広げるのではなく、従来の紙の教科書、手書きノートの要素をうまく活用していくことが求められている。生徒にとってのインプットの局面では、核となる情報は紙面のテキストを使い、書き込みなどをさせて読みを教えるべきだろう。そのほかの補助的情報はデジタルで見せ、メモをとらせるのは最低限にすればいい。

 アウトプットにおいては手書きノートを充実させるべきだろう。板書の「写経」は最低限にして、自分の感想や疑問点を書かせる。また、授業後のまとめや感想を書くことを習慣化させるのがいい。あくまで手書きにこだわらせる。国語科である私にとってはここは譲れないところだ。一方で記号で答えられる小テストなどはGoogle Classroomにあるフォーム機能などを使って答えさせると即時に解答の傾向が分かり、指導の助けになる。添削を要する作文も時にはデジタル入力させると添削や返却が簡単になる。

 要するに、アナログとデジタルの使い分けが必要だということだ。世間的にはデジタル化の遅れが日本社会の停滞の主因だという論調が多いが、中等教育の現場においてはそれをそのまま適応してはいけない。

考える過程を示す

手順が大事

 国語、とりわけ現代文の授業では考える過程を学ぶことが最重要の目的だ。これを示すのは案外難しい。言葉の運用の能力は人それぞれであり、示し方に工夫が必要だ。

 文章を型で教えるという方法がある。これはいつもやっている方法だ。段落には言いたいことをいう文と、それを支える文とがある。トピックセンテンスの考え方を教える。大半の生徒はこれで納得するか分かったふりをする。しかし、そもそも何が意見であり、何が例証であるのか区別がつかないものにとってはこの説明は効果がない。

 段落と段落の関係についても同様だ。それぞれの段落の役割を把握するのは実は高次元の概念ではないか。掴むことのできたものには当たり前でもそこに至るまでには時間がかかることがある。

 考え方を多様な方法で示すことが教員の付けるべき技能なのかもしれない。答えを教えるのではなく答え方を教えるのが国語の特徴である。