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メダカの飼育

 子供のころメダカを飼っていた。川で直接捕まえたものもあったが、金魚店で買ったこともある。売っていたのは大抵ヒメダカというオレンジの魚で、普通のメダカは買うものではなかった。いまはその当たり前にいたメダカの方が貴重になっているらしい。

 水槽に適当に小石を入れて水草を入れれば、あまり何もしなくてもメダカは生きていた。今はビオトープとかいうそうだが、アパートのベランダに放置していた手抜き飼育だ。勝手に産卵し、増えたかと思ったらいつの間にか死んだのもいて、そういう世代交代が何代か続き、ちょっとしたアクシデントで全滅したこともあった。

 メダカは身近な生き物でなぜか心が落ち着く効果を持っていた。いまは生き物を飼育する余裕がない。いつかまた鉢の中を見下ろす日が来ないかと考えている。

燕の巣

 ときどき利用する駅には燕が営巣している。今年は3カ所あり、すべてがうまく雛が育っているようだ。

 巣のある場所の下には三角コーンが置かれ、頭上から落ちてくるものに注意するようにとの但し書きが付いている。誰もこの不自由さに不満を述べる者はなく、当たり前のこととしている。

 燕が人間と共生するようになったのはいつからなのだろう。この鳥が南方からの渡り鳥であり、その雛がまた戻って来ることを古人は知っていたのだろうか。燕が雛に与える餌の多くは昆虫であり、かつては農業を支える益鳥であったことをよしとしていたのだろう。都会の人間にもその記憶は残っているのかもしれない。

 燕が人のよく通行する場所に営巣するのは、天敵たちが近づけないことを見越しているからなのだろう。それを発見するまでの歴史に自然と惹かれてしまう。

狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。

初燕

 今朝、私としては今季初めてツバメの姿を見つけた。数日前に鳴き声は聞いていたので少し前から飛来していたのだろう。寒暖の差が激しいこの頃だがそれでも季節は確実に遷移しているようだ。

猫を見ていて

 猫はもともとウサギやネズミを狩っていたようである。長い人間との付き合いの中ですっかり牙を隠している。でもその本質はハンターであることは忘れてはならない。

 ある施設に飼われている猫に今日は接した。媚びを売るように近づいてきて、少し撫でてやると急に腹を見せてくる。これをかわいいというのだろう。私もその思いを発しながらも、でもこの動物は根本的に狩猟を旨とする生き物であると考えてもいた。油断はならない。

 おそらくこの人なつこい行動は長い人間との共生の中で獲得されたものであり、後天的な要素なのだろう。人類が滅亡したらイヌの多くは共に滅亡するが、ネコ類は野性に戻って生き続けると考えられているのも、もっともだと思う。

 こどもの頃は猫が嫌いだった。どこか自分の弱みを見透かされている気がしたのだ。ところがある年齢を過ぎると猫を愛おしく思えるようになった。何かに共感したのだろう。ネコも人間に従属することになるとは思っていなかったはずだ。媚びを売りながらもしっかりと欲求をする。ネコ的なしたたかさを再評価しているのだ。

法師蝉

 気のせいかツクツクボウシの鳴き声をあまり聞かない。晩夏によく鳴くのでこの蝉が鳴くと夏休みも終わりだと感じたものだ。

 私の住まいの近くだけの現象かもしれないが、ツクツクボウシを聞くことがとても少なくなっている気がしている。これも気候変動の影響なのだろうか。それともあまりに忙しく蝉の声を聞き取る余裕がなくなっているせいなのだろうか。

燕の親鳥は

 夜、駅に行くと燕の親鳥が看板の上に止まって寝ていた。雛が大きくなって巣には同居できなくなったようだ。巣の近くで、それでも雛を守ろうとしているのだろうか。夜遅くまで明るく、うるさい駅構内によくも暮らせるものだと思う。外敵に晒されるよりは遥かに安全なのだろう。

 燕の親子に愛情を感じることができるのは私たちが同じ生き物であるからだろう。進化の過程で身体の形やその一生の有り様は大きく隔たったが、子孫を残すために心身を尽くす生物の本質は変わらない。それをなんとなく察することができるのは人間の能力の一つだ。

 人工知能に同じことをやらせるのは今のところ難しそうだ。事象を超越してその深奥を摑むことは人間の牙城たるものの一つだろう。そういう能力を大切にしなければならないと考えるのである。

雛育つ

 よく使う駅の監視カメラの上に作られた燕の巣の雛たちがかなり大きくなってきた。親鳥が近づくと一斉に口を開ける。雛たちを支える親鳥の献身は心を打つ。彼らの命は親鳥にかかっているのだ。危険を回避するためにあえて人間の生活圏に飛び込んできた鳥たちの叡智には感銘を禁じ得ない。

燕の営巣

 数日前、燕の囀りを聞いた。姿は発見できなかったが、恐らく電線の上などにいたのだろう。今朝、それと同じ個体かどうかは分からないが駅の入り口の屋根裏に営巣しているのを見た。早業だ。

 このところ初夏と言うには高すぎる気温の日が続き、今日も夏日になるらしい。燕もせかされているのだろうか。野生動物なのに人間の直ぐ側に巣を作り、我々が手を出さないことを信じているかのようだ。確かにこの間合いはカラスには無理だ。

 おそらく瞬く間に成長し、空をかけめぐることになるはずだ。ツバメが来るとなぜか安心する。

都会の野生動物

 駅前のベンチで荷物を整理していたら小さな生き物が歩道を走って横切り、街路樹のツツジの植え込みの中に隠れた。しばらくすると別の個体がほぼ同じ速度と経路で走り過ぎる。どうやらネズミのようだ。

 人通りの多い駅前にネズミがいることに普段は気づかない。でも、調査すれば恐らく多数のドブネズミなどが生息しているはずだ。ネズミだけではない。多くの野生動物がこの街にもいる。

 少し前にタヌキに遭遇したことがある。アライグマではなく確かにタヌキだった。ホンドタヌキは在来種らしいが、都会に普通に生息しているらしい。外来種に押されているようだが、小さな雑木林でも繁殖できる。

 ハクビシンに出会ったこともある。屋根裏などに棲み着くので害獣扱いになる。他にもいろいろな野生動物がいるようである。身を隠ししたたかに生きている。

 多くの動物たちと共生しているという意識を持つだけで日常の見え方が変わっていく。何でも人間優先という価値観が変われば解決できることが増えるのかもしれない。