タグ: 俳句

短歌的想念、俳句的気分

 短歌や俳句が好きな私にとって、思いの表現の仕方が短歌的になるときと俳句的になるときとがある。これはある意味連続的なものなのでどちらともいえないときもあり、そういう時は作品はできない。たいていの場合はそのできないときの感情でいる。

 物事の感情を切り取ることができたとき、短歌は生まれる。いろいろなことが絡みついている日常の中の一つを取り出すことができれば歌は作りやすくなる。実際には物事は複雑に絡みついており、一つを取り出すことはできない。それを人為的、もしくは独善的に成し遂げたとき私の歌は完成する。

 俳句はもっと冷静にならなくてはできない。景をもって情を表すのだから、様々な思いを託す景を見つけなくてはならない。見つけた後はひたすら枝葉を落とす。ようやく形が残ったものが句になる。

 俳句も短歌も表現の方法としては似ているが、最後の仕上げはかように異なる。これらの文学を知り得たことは、私のあまり報われなかった学問生活の中では最大の成果だと思う。

無意識の選択

 新緑の季節である。万緑といってもいい。緑に励まされ、力をもらえる気がする。ここ数日心身のバイオリズムが下降している私にとって、この光景は何よりもありがたい。

 草原に目を凝らすとすすきの穂が残っている。この植物は強いので枯れても形が残ることが多い。しかし、それに気づく人は少ない。私も最近発見したのであり、しかもすぐに忘れる。風薫る季節とすすきの亡骸は結びつかない。そういうものはたとえ視界に入っても認知の枠からは除外される。

 私はよくものを見ているようで、実は見たいものを見ている。現実そのままを見ることは難しく、ある程度の枠組みの中に入ったものを捉え、そうでないものを取り除いているのだ。写真に撮った風景の印象が変わることがあるのはそのためだろう。

 今は風景に癒しを求め、そこから得られる何かを期待している。考えてみれば歳時記の季語と言うのものはそうした見たいもの感じたいもののリストなのかもしれない。

少ない言葉で

 先に人工知能による画像生成システムの話を書いた。画像を作成するための指定が短いフレーズでできていることは驚きだった。そして、この考え方は実は人間の認知の方法そのものであると気づいたのだ。

 複雑で多彩な絵を完成させるためには多くの指定が必要だ。つまり多くの語意があることで満足できる絵が描けるようになるということだった。ただし、文学にはそれに逆行する考えもある。短歌や俳句などでは使う言葉を限定することで成り立つ短詩形文学だ。先の絵画作成アプリに例えるならば、指定できる言葉の数が限定されている。その中で何らかの絵を描く必要があるということだ。

 思い通りの詳細は描けない。ならば、最低限必要な輪郭なり、色彩なりを提示することで世界を描くしかない。限られた上限で何ができるのかを追求するのが短詩形の特徴であり、それゆえに生まれる効果が短歌らしさ俳句らしさを生み出している。描くのに多くの筆を使わず、色彩も限定する。この美学は顧みるべきだろう。

 少ない言葉で表現される短詩形文学ではあるが、その世界をつかみ取るまでは過去の経験や豊富な語彙が必要になる。多彩な材料の中から枠組みに合うものだけを厳選するというのがその本質なのだろう。