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突き抜ければ

サボテンの魅力は?

 龍膽寺雄という作家のエッセイを読んだ。シャボテン(サボテンのことをこの作家はこういう)の愛好家で自分でもマニアだという。偏狂家ということである。ただこの偏狂も突き抜ければ芸術となることが分かった。

 戦中を生きた彼は焼夷弾攻撃を受けてもシャボテンへの愛情を失うことなく、焦土と化した街にでかけ、シャボテンを買い求めに行った話などもあった。劣悪な環境に耐えて生きるこの植物に、心情的な魅力を感じているようであった。その奇妙な形態がいいとか、稀に咲く美しい花がいいとかいう次元を超えているようなのだ。

 この人に限らず、一見理解しがたい偏愛を見せる人がいる。それも突き抜ければ人間愛というか、世界を俯瞰する哲学のようなものの見方ができるのかもしれない。そういう趣味ならば持っていたい気がする。

変身願望

 仮装ではなく本当に別人になってしまいたい気持ちになることがある。おそらく多くの人がそのように考えたことがあるのではないだろうか。そしてそれは不可能な願いなのだ。

 もっとも細胞レベルでは生物は常に新陳代謝をしており、一定期間で置き換わっているのだという。だからその意味では常に変身を繰り返しているともいえる。

 しかし、実感としてそれは変身願望には答えられない。それは自分の生の延長上にある加齢というものだからだ。変身するためには別の身体がいる。見た目も行動も全く別の者にならないと変身したことにはならない。

 年齢が変わったり、性別が変わったり、性格が変わったり、その組み合わせだったりするのが変身願望の理想的な完成形だ。現実には外見を変えることはある程度できるようだが、時間軸を往還することや、生命の神秘の領域となるとできることは限られる。

 擬似的に他人になりきることは文学や芸術の力でできることもある。昨今ならば仮想現実の中で他人になりきることもできるかもしれない。漫画やゲームがその役割を果たすこともある。でもこれはどこまでもバーチャルのことであり、少しも自分は変わらない。

 私はしないが化粧することは自分を他者からどのように見られたいのかを示すメッセージだろう。服の選び方とか着こなしの方法も実は変身願望の端緒に当たるのかもしれない。

 結局、自力では他の誰にもなれないことになる。よく考えれば自分の存在は他者の目によって認識されるのだから、変身などしなくても人によって自分は様々に変化しているとも言える。なんとも不思議なものだ。

自分以外にはなれない

There are times when I feel like I really want to be someone else, not in disguise. Many of us have probably thought about it. And it’s an impossible wish.

However, at the cellular level, living things are constantly metabolizing and being replaced over a period of time. So, in that sense, we can say that we are always transforming.

However, in reality, this is not an answer to the desire for transformation. This is because aging is an extension of one’s own life. In order to transform, you need a different body. You have to look and act like a completely different person to be considered transformed.

A change in age, gender, personality, or a combination of the three is the ideal completion of the desire to transform. In reality, it is possible to change one’s appearance to a certain extent, but the ability to travel back and forth through time and the mystical realm of life is limited.

In reality, we can change our appearance to some extent, but when it comes to time travel and the mystical realm of life, we can only do so much. Nowadays, it may be possible to become someone else in virtual reality. Comics and games may play a role in this. But this is all virtual, and it doesn’t change you in the slightest.

Wearing make-up, which I don’t do, is a message of how you want to be seen by others. The way you choose your clothes and the way you dress may actually be the beginning of your desire for transformation.

After all, you can’t become anyone else on your own. When I think about it, my existence is recognized by the eyes of others, so I can say that I change in various ways depending on others, even if I do not transform. How strange life is!

脇役の力

 演劇を観ているといろいろなことに気づく。主役を輝かせるのはその周囲にいるものの力であるということだ。

 もちろん主役本人に魅力がなければならないことは間違いない。しかしそれだけではない。個人で表現できることには限りがあるのだ。それを補ってくれるのが他の役者であり、舞台美術や衣装、照明などのスタッフなのだ。彼らがそれぞれの仕事を全うしたときに主役は光ることができる。

 舞台人でなくても同じなのだろう。私たちは誰もが主役であり、脇役やスタッフでもある。それを同時に演じている。観劇をするたびにそれを考える。

分かれ目

 卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞を分かれ目と誤解していた時期は長い。係り結びの法則を学んだあともこの歌詞に思いを致すまでには暫くかかった。

 ただ分かれ目説にもそれなりの説得力がある。卒業を気に人生の分節点を意図的に作りだし、現状からの脱却をはかるというのはむしろ卒業の意志にふさわしい。そう思って歌唱している人は多いのではないだろうか。

 慣れ親しんだ学舎と同窓の仲間との訣別を覚悟する点においては当たらずといえども遠からず。それぞれの思いで歌えばいいのかもしれない。

謙虚

 最近の自分に欠けているのは謙虚さであるとは自覚している。この歳になると一応のことはできるつもりになっている。実際に大抵のことはできている気になっている。

 ただ、何事もよりよいやり方があるものであり、それを知る先人も多い。その先駆者の業績に学ぶことは何より大切なことだろう。学ぶことに消極的になっている己がいる。

 その原因が謙虚さの忘却にある。周囲の人から学び、読書を通して知見を知り、またブロガーの経験談からも学ぶことが多い。そういう触覚を鈍らせないことが私の今の課題だ。

一喜一憂

 昨夜はアメリカの株がかなり下がってしまった。長期金利が引き上げられることへの警戒だという。一喜一憂がトレードの常だが僅かな小遣いの減少でも悲しく感じるのは己が小人の証だ。

 株はあくまで社会勉強の一環として始めた。世の中の仕組みを実感したかったのだ。コロナ禍という特殊事情の中で株価は異常に値上がり、私のような初心者でも結構利益が出ている。ただ確定していないのでまさに絵に描いた餅だ。数字が正の数を示しているのに過ぎない。恐らく日本市場もこれから下降傾向に入る。それも数字が減るだけだ。

 株を老後資金に考えているのも事実だがあまり期待はしていない。毎月積み立てる習慣ができたことだけでもよしと考えることにしている。

思いやり

 ソーシャルディスタンスをどのように考えるのか。揺れてきているかもしれない。そもそも感染予防は誰のためなのかという問いを再考してみる。

 未曾有のパンデミックが人々を不安に陥れた昨年の状況においてソーシャルディスタンス(Social distancing)は日本では密閉・密集・密接をさけるとして「さんみつ」として人々の共通理解となっている。それは自らの感染を防ぐという意味でまずは認知されたはずである。日本のように社会性の強い国ではこれはそのまま社会の安定という発想につながった。自分が感染しないことは周囲に感染させないということであり、それが自らをふくむ家族・組織・共同体の利益になるという考えである。だから他国と比較して手指消毒・マスク着用がいち早く行われ、さらに普及率も高い。

 ところが、長く続けているうちにさまざまな解釈が行われ、この行動が変容してきている。初期にはアジア人は感染しにくいという根拠なき判断であり、最近は重篤化するのは高齢者か既往症を持つ人だけであり、若年層は感染しても軽症で済むというものである。いずれも科学的に証明はされていないようだが、ここまでの経験ではある程度あたっているかもしれない。そこで当初生まれた社会的な防疫という観点が薄れ、自分が感染しない、もしくは重篤化しなければいいという考え方が台頭してきているのだ。これは経済活動の維持論とも連動して強いものになっている。

 真実は分からない。ただ言えることは同じウイルスで死ぬ人がいてそれを防ぐために悪戦苦闘している人がおり、同じように働いていても日々労働の機会が奪われている人がいるということだ。その裏で自らは発症することなくキャリアーとなり、自らは現場に立つことなく利益を増やしている人々がいるにもかかわらず。

 自戒を含めて言うならば、人間は社会的な生き物として進化したことを忘れてはならないのではないか。自分が良ければいいという考えが結果的に破綻することを私たちはすべての学問、教育、経験で獲得していたのではなかったのか。あるいはもっと奥にある遺伝情報に組み込まれているのではないか。

 思いやりを持ちましょうというのは感情レベルで話されることが多い。しかし実はもっと切実なものなのかもしれない。私たちが生きていくうえで不可欠なスキルが実はこの日常語の中にあるのかもしれない。

歩いたことがある道

 グーグルのサービスに自分の移動記録を蓄積してくれるものがある。これまでどこに行ったのかを登録した端末の位置をもとに記録する。

 もし、自分が歩いたことがある道を色づけしていくとしたら、その濃淡に自分の生活圏のようなものがわかるだろう。そして、その狭さに驚くかもしれない。ごく限られた空間を、面というより線で移動し、世界を見てきたかのような気持ちになっている。

 歩いてきた道は大切な人生だが、そこから踏み出すことも大切なのではないかと考えるこの頃だ。

真逆の展開

 自分の人生を考えるとき、思わぬ展開に走っていると思うことがある。こんなはずではなかったと考えるのだ。だが、その焦りを麻痺させてしまう毎日の雑事が私の生活を複雑にしている。

 もし、思う方向とは別の場所に向かっていると感じたならば、おそらく強い焦燥を感じて必死に軌道修正を試みるだろう。大きなロスもあるかもしれないが、目的から外れることもない。

 ところが実際には間違った方向に進んでいるという実感は起こらない。むしろそれなりの魅力ある毎日があってその中で自分を適応させてしまうのだ。結果的に望まぬ方向に進んでいたとしても。

 風雲流水、臨機応変の生き方がいいに決まっている。ただ、やはりこだわりというものは捨てきれるものではない。時々染み出してくる後悔の念が心をくすぐる。気がつかぬふりができなくなると大きなため息が出てしまうのだ。

 真逆の展開と考えるのはよして、もとからそうなる定めであったと考えることにしよう。これで当面は凌げるかもしれない。

封じている何か

 感情は自発的なものであり、制御ができないものと考えられる。ただ、ある種の記憶に関してはそれが可能になることもあるようだ。

 大切な思い出の一つはいつまでも忘れられないもののはずなのに、思い出すことを封じているかのように出てこない。これは何かが自発の動きを制しているからなのだろう。そんなことは映画かドラマの中の虚構だと思っていたがそうでもないようだ。

 制していたものはいつか堰を切ることになる。そこには痛みもあるかもしれない。いまはそのことを恐れるのは止めておこう。いまを生きるための本能の技を信じていよう。