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選挙に行きますか

 駅前でとある政党が演説を行なっていた。曰く、選挙にいかなければ政治は変わらない。有権者の半数に満たない投票で政治が行われているのはおかしいと。至極正論である。

 右翼政党として知られているその政策は支持できないがここまでは賛成である。この演説を聞きながら、動画サイトで展開するユニークな政治に関する番組を思いだした。数名の高齢者が登場し、若者は選挙にいかなくていい。政治は年寄りに任せろ。好きなようにしておくから。あなた達はSNSで政治の愚痴を書き込んでおけというものだった。皮肉が効いたもので印象に残った。

 この動画の方は世代の分断を促すものとして批判されているようだが、若年層の投票行動を促すものとしてはなかなか効果的だ。実は世代差だけではない。投票しない多くのサイレントマジョリティーが割を食っていることは明らかだ。

 民主主義の陥穽にはまらぬように、何をすべきなのかを考え続けなくてはならない。

思考を乗っ取られないように

 生成型AIのもたらす弊害がしばしば話題に上がっている。簡単な指示だけで文章やプログラミングができてしまうAIは道具として使うのならば便利だ。ただ、人工知能として使うならば、つまり人間の思考の代替として使うならば危険を伴う。

 最近の大学生はパソコンが使えないという。もちろん、全てではなくそういう人が目立つということなのだが、頻繁に耳にすることから、少数派という訳でもなさそうだ。パソコンが使えないのはスマホがあるからだ。私の世代にとってはスマートフォンはパソコンがないときの代用品に過ぎないが、若い世代にとっては何でも一応できるスマホがあるのに何でわざわざパソコンを使う必要があるのかと思うのだろう。使えないのではなくそもそも持っていない人も増えている。技能不足の問題ではない。

自分で考えよう

 AIがその問題をより深刻にしそうだ。すでに複雑なオフィスソフトを習得するよりはAIにどう話しかけるかの方が大切だと思われつつある。日本語の予測変換のように、本人の考えそうなことを予測してしまうシステムは直にできあがる。

 かつてコンピュータが普及し始めた頃、大学の教員から最近の学生は文書や手紙の書き方を知らない。書き方を習ったことがないのかと叱責されていた。その叱られていた世代がパソコンを使えない学生に苦言を呈している。もしかしたら五十歩百歩なのかもしれない。ただ考えなくてはならないのは、思考のアシスタントをするサービスは、人間が自分で考える機会を巧妙に奪い取るということなのだ。

 思考を乗っ取られないように自戒するとともに、若い世代の思考力を高めなくてはと思う。まだ教員であるうちはこんな偉そうなことを言ってもいいだろう。

感じ取るもの

 とても残念ではあるが、歳を重ねると感受性の感度が落ちる。これは自己防衛の方法として獲得してきたものだ。いちいち細かいことに感じ入ってしまうと先に進めない。その結果不利益になることもある。世の中そういうものという割り切りが、日常を過ごすためには必要である。

 ただ、これも度を過ぎると新しい事態に対応できなくなる。過去の事例と結びつけて分類に落とし込むと、新芽の存在を見逃してしまう。これが老年の問題点だ。見逃すことが続くと結局過去の世界で生きることになる。現実は毎日変わるのでだんだん追いつけなくなる。

 これを防ぐにはどうすればいいだろう。今起きていることや、若い世代の考え方に触れる機会を意図的に作るしかあるまい。かといって若者の輪に加わることは難しい。世代を超えたサークルのようなものに加入している人はそれができるかもしれないが多くの場合は不可能だ。

 ならばせめて若い世代の支持を集めている文化現象に触れてみるのがいい。音楽やファッションの世界にも興味を持とう。漫画や小説も少しは読むといい。おそらくその多くは性に合わないはずだがそれでも日常とは異なる体験ができる。それが感性の老化を緩やかにするのなら、それもいいではないか。

 実はこの話、若者に対して行う先輩の価値観を知ろうというメッセージの裏返しとして考えた。

後生畏るべし

 私の最近の座右の銘は「後生畏るべし」なのかもしれません。あいまいな表現になっているのは結果的にそう考えているというものであるからです。次世代リーダーの輩出こそが責務と考えているのです。

 生徒諸君は多くが未完成で成長段階にあります。しかしそれは発達段階上の現象であり、自分より劣っているということではありません。昔より今の子どもは様々な点で恵まれている。だから苦労を知らない。苦労していないから自分より劣っているなどいう思考回路は私たちの陥穽にあたります。どうして自分より劣った世代が次の世界を担えるでしょうか。少なくとも自分たちよりは困難な状況が予測される将来を担う人材はもっと優秀であらねばならないし、現にそういう人材が生まれつつあるのです。

 だから生徒に接するととき、今は教員と生徒という立場にありますが、時間が経てばそれが逆転するかもしれない。いや、なるべく早く逆転できるように接していかなくてはならないと考えます。自分を超えた存在をいかにしたら生み出せるのか。教育の根本理念をもっと考えていかなくてはならないと考えています。

 そのために最低限必要なのは生徒に敬意をもって接することではないでしょうか。自分より劣った自分以下の存在を教化するのではなく、自分を超える存在が成長するのを手助けするという考え方こそ今の教育界に必要な考え方なのです。