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屋上のアイドル

 渋谷に住んでいたころの思い出は数々あるが、懐古の波が起きると止まらなくなることがある。思い出したときに書いておこう。

 高校生の頃だったか、今はなき東急プラザの屋上にちょっとしたステージがあって、ときにはタレントやアイドルのショーがあった。友人と訪れたのは河合奈保子のプロモーションであった。その頃の彼女はデビューしたての新人歌手だった。レコードのいわば手売りのイベントで持ち歌もシングルの両面のみ、いかにもプロの作詞家と作曲家がアイドルのために作ったという感じのコケティシュな曲だった。後に彼女自身がかなり完成度の高い作曲をするとは、そのときは思えなかった。

 彼女にものすごく熱を入れていた友人は、いろんな情報を持っていて、いろいろと説明してくれた。彼はいたって真面目でピアノ演奏が得意な控えめな性格の持ち主だったので、アイドルへの執着は不思議だった。彼のおかげで売れる前のアイドルの姿を見られたのは幸いであったのかもしれない。

 昭和のアイドルたちはいまより過酷な条件でステージに立っていたようだ。一人もしくは数人の単位で営業していた当時は個人の能力や才能、資質に多く依存していた。そのキャラクターが前面に出ることから、個人的な批判に晒されることも多く、中にはステージ上の仮面と真の自分とのバランスを保てなくなってしまった人もいた。

 過酷な世界に咲いていたあだ花と見る向きもあるが、過去の思い出の一つとして記憶されていることを思えば、時間の流れの中に確かに結実したのかもしれない。

時代劇の効用

 YouTubeでたまたま表示された昭和の時代劇を見てみた。いわゆる勧善懲悪の定型の内容だ。すぐに別の動画に移るつもりだったが、最後まで見てしまった。

 ストーリー展開には荒いところもあり、人物造形も典型的なものの連続だ。それらは気になることであったがそれよりもなにかを引き付けるものを感じた。恐らく日本の文化に基づいたこうあるべきというすじ運びができているのだろう。落語や講談の展開と似ているからかもしれない。

 悪はどこまでも悪で、それに虐げられた人々は救われるべき弱者として描かれる。そして悪役が崩壊するときの爽快感を主役が演じて見せる。こういう展開は現実にはめったにないのに、時代劇では必ず達成される。爽快なのだ。

 時代劇の話には日本人の伝統的行動様式が反映されている。ある意味、これらを通して和風を学んだともいえる。いまの若い世代にはこの機会が少い。昭和のマンネリといわれた時代劇にも実は私は効用があったと私は考えている。

紅白は枠組みを変更を

 紅白歌合戦が日本の伝統であるかいなかについては議論がある。私はこの行事自体には意義があると考える。この番組に出場することを目標としているプロ歌手は依然として多く、その意味でも継続すべきだろう。

 ただ男女対抗の対抗戦という形式はそろそろやめていいのではないか。男女で芸能を二分することはほとんど意味がない。混成のバンドも増えているし、むしろこれからは性別によって区分けをすること自体無理がある。

 例えばそれぞれの本拠地や、縁の地でチーム分けするのはどうだろう。いっそのこと生まれ月で分けてもいい。毎年、チーム分けの基準を変えてもいい。さらにいうなら対抗戦の勝敗の結果はほとんどの人にとって無意味だ。だから、勝敗をつけること自体やめてもいい。

 エンタメとして盛り上げるために歌以外の要素があまりにも強調されているのも気になる。じっくり歌を楽しむ番組になればいい。取ってつけたように合戦の体を装うことは止して構わない。

 年末に歌の力で感動をもたらしてくれる歌手に活躍の場を与えるべきだ。歌番組の原点に回帰すればと切望する。

夢の存在を崩した事件

 いろいろな意味でアイドルが注目されている。漫画の「推しの子」ではアイドルという虚構の存在が内側から描かれている。アイドルは人間がつくり出した理想形を現実に演じる存在である。そういう人がいたらいいと思うが本当はいない。そういう存在を演じることがアイドルの条件になる。

 昭和のアイドルにもさまざまな伝説や醜聞はあった。制作側がつくり出すイメージにいかに自分を当てはめるのかがアイドルになる条件だった。それに耐えきれず挫折する人や、そのイメージから脱するためにほかの方面に進む人も多数いた。また、手の届かない存在としてのアイドルとは別の、身近にいそうなイメージを演出するタイプの人もいた。これは現在でもその流れをくむタレントが多数いる。ただ彼らもまた現実にいそうでいない理想形のタイプの一つであるのには変わりない。

 現在ニュースを毎日騒がしているジャニーズ事務所の問題はもっとも知られてはならないアイドルの裏側を暴露してしまったことで大問題である。これまでの噂話のレベルの醜聞とは桁が違う。しかも当事者が物故した後にようやく露見するということは、多くの人が見て見ぬふりをしていたということになる。その意味では非常に構造的な大問題だ。

 アイドルという存在に夢を見ることができなくなる時代は大変残念なものだ。でも、過剰な期待を人間に求めるのは間違いなのかもしれない。そういう一種の絶望感を今回の事件は浮上させてしまった。私たちは何に自分の夢を求めていくべきなのだろうか。

大衆を相手にするならば

 韓国の女性タレントが日本で性的ハラスメントを受けたとの報道が出ている。この方の存在は全く認知していなかったし、今でもよく分からない。ただ、同胞が不愉快な思いをさせたことを申し訳なく思う。痴漢行為をした輩は速やかに罰を受けるべきだ。

 日本人は、というより男という者は理性的には行動できない。男は抑圧的に日常生活を送っているものの決して理に従っているわけではない。だから、安易に男を信じてはいけない。あなたの国と同じなのだ。ファンは大切だが距離は置いた方がいい。

 一言余計なことをいうなら、日本人は手の届きそうで届かない存在をアイドルと感じる。あなたの間合いは近すぎるのだ。日本で成功するなら、近づきすぎない方がいい。握手するのに大枚を要求するのは理不尽のようで意味がある。

 昭和時代のアイドルは基本的には一人であり、事務所の意向に服従していた。キャラクターの設定からプライベートのあり方まですべて他人任せで自主性は感じられなかった。それがいいとは全く思わない。自主性のないのはよろしくない。ただ、一人のものの見方に固執しない社会を市場と捉える方法はできていたとも言える。

 大衆を相手に商売をするためにはそれなりの方法論がある。自分の価値を保つためには距離をコントロールすべきだ。それさえできれば日本で成功することはたやすくなるだろう。

 

応援の仕方

 球場に歓声が戻ったのは大変うれしいことだ。WBCの中継では久しぶりに声を出しての応援風景も見られた。鳴り物入りの応援は日本の野球の特徴であり、野球の魅力の一つになっている。

 ただ、私たちは無観客試合の中継を通して打球音や、選手たちが味方に檄をとばす声などを聞いてしまった。それは野球のもう一つの魅力を思い出させてくれた。このスポーツはかなり大きな音がするスポーツであり、またチームワークが大切でかなりメンタルな面が強いということを。

 実際に野球をしている人ならばこのことは知っているはずだ。ただこれまでテレビを通してしか試合を見たことがない多くの人たちにとって、選手の声を直接聞いたり、グラブに吸い込まれるボールの音などは知りようもなかったはずだ。

 華やかな応援と打球や捕球の音を聞く楽しみはどのように共存できるだろうか。私は新たな応援スタイルが生まれることを期待している。それは投手が投球モーションに入ったら鳴り物をとめることだ。ボールがミットに入るか打ち返されたらまた盛大に応援すればいい。

 このスタイルが定着すれば野球はもっと魅力的になる。応援する人は常に選手の動きを見ていなくてはならないし、ともに試合を盛り上げるという自覚が必要になる。単なる自己満足ではなく、選手の気持ちを盛り上げる真の応援になるはずだ。プロ野球でそれができればアマチュアの試合も変わるはずだし、海外でも模倣するリーグが現れるかもしれない。