昼の長さが日に日に短くなっている。出発時も帰宅時も暗く、その意味では心細くも感じる。
ただ暗いからこその発見もある。普段は何とも思わない雑草の類でもたまたま光があたると実は綺麗な赤い実を付けていることなどが分かるのだ。照らされるからこそその彩りが引き立つ。
何事も考えようだ。好ましくない状況でも、別の何かにとってはよいものになっている可能性もある。これからの季節はそういうことを無意識のうちに教えてくれるはずだ。
日々の思いを言葉にして
冷たい雨の降る一日となった。冬を感じる空気につつまれて、今年初めて手袋を着けた。これでかなり感覚が変わる。
昔から防寒には無頓着で、上着、コートの着脱だけで凌いできた。冬用の下着とか、素材の違う上着とかも考えるべきだろうがしてこなかった。ただこの歳になれば考えた方がいい。父はステテコを着ていたが、私は一着も持っていない。温暖化のせいかもしれないが何とかなってきたのだ。
そして来月あたりに風邪を引いて熱を出すのも例年の決まりごとのようなものだ。そのときは厚着しなければと考えるのに治ってしまうとまた無防備に戻る。これも改善しなければとは考えている。
四季のあるのはありがたいことだが、その都度対応を忘れて失敗を繰り返す己に呆れるばかりである。
アメリカ大統領選挙の結果に失望した日本人はかなり多い。国民を扇動し、裁判では敗訴しているのに、そして選挙運動中の発言は理解不能だったのにも関わらず、選挙で圧勝してしまったからだ。アメリカ人の民度に失望した人も多かっただろう。
ただ、いろいろな情報を総合すると、ハリス民主党よりはマシだと考えた人々が多かったということになる。その一つが民主党が国民の生活感を捉えられなかったことにありそうだ。急激な物価上昇という現実があるのに、選挙戦では人工中絶や性的マイノリティの保護の話ばかりを争点とする。間違いではないが優先順位がおかしい政策論争に国民が非を訴えたということなのだろう。
二択しかないアメリカの政治にとっては積極的賛成か、比較的賛成のどちらかしかない。そもそもトランプ氏のような個の立つ人物が党の代表になっていること自体が実は問題で、よりふさわしい共和党代表がいないことに問題点がある。
これは民主党にも言える。ハリス氏が副大統領としてもう少し実績を残していたら結果は違っていたはずだ。バイデン氏がもっと早く政権移譲を考えられる存在になっていたらと多くの人が考えている。ガラスの天井の問題とは異なる気がする。
民主政治の性格として常に誤りを繰り返すということがある。絶対的権威がないことは選択ができるということだが、常に最善の選択肢が用意されている訳ではない。その中で比較的上級なものを探し、折に触れて意見を権力側に伝えて行くしかないのだ。それが機能するのか。注目したい。
ある演劇を観た高校生が感想を語り合っているのを耳にした。登場人物の振る舞いや、台詞について情熱的に語っていた。中には私とは見方が違うと思うこともあり、基本的な筋の読み間違いではないかと思う発言もあったが、概ねは賛同し得る意見であった。
立ち聞きしたのは申し訳なかったが、私が驚いたのは細部にわたって様々な解釈がなされていたことだ。私と言えば、芝居の構成や他の演劇との類似性、伏線の答え合わせなどなんというか本質的てはないことばかり考えていたのである。理屈で芝居を観るのではないと思うがそうしてしまうのだ。
純粋に演劇の世界を楽しむにはある程度の没入が必要だが、私はどこかで自分を押し止めてしまっている。それが本当の意味で楽しめていない原因かもしれない。
政治家の話を聞いていると、かつては良かった日本が今は衰退している。だから、過去の輝きを取り戻すといった内容のメッセージが多い。過去の栄光と、今の体たらくを認めた上での論調だ。
私のような世代にはこれはある程度説得力がある。世界第二の経済大国とか、Japan as No. 1という言い回しに慣れた世代にとっては、現在の停滞とこれから予想される縮小再生産が許し難く、それでも認めざるを得ない事実は辛い事実だ。だから、過去を取り戻すという主張には惹かれてしまう。
でもよく考えれば過去を取り戻すという考えは現実的ではない。あの頃のような人口増加はないし、劣悪な労働環境に耐える心性もない。豊かな状態を知ってしまった人に、レベルダウンは耐えられない。できなければ効率化を目指すべきだということになり、それができないのは個々人の才能によるという自己責任論になる。
発展段階にある国家、組織は個々人が幸福の追求に貪欲で、多少の自己犠牲を厭わない傾向にある。当然競争や軋轢もある。それを避けているうちはブレークスルーは生まれにくい。
だから過去を取り戻すのではなく、新たな挑戦の時代に局面を移すというのが、指導者の言うべきものなのだろう。これには多数の敗者が発生する。過去の歴史では一度敗れると浮かび上がるのは大変だった。もし可能であれば、敗者復活のシステムを確立すべきなのだろう。
リーダーがこのことを言うのは難しい。挑戦しなさい。うまくいけば社会的成功があります。ただ、失敗することもあります。その可能性の方が多いのですが、それでも再挑戦するのです。いつか成功するまで続けるのです。そんなことを真面目に言えるリーダーが出ればまだこの国は何とかなるのかもしれない。そもそもこんなことを言うリーダーに支持が集まるとは思えないが。
学歴社会に生きてきた私にとって、過去の栄光は絶対的な財産であり、獲得すれば上に行き、しそこなえば浮上は不可能という思い込みがある。ただ、若い世代は違うだろう。過去の栄光がない代わりに危機感がある。そこに上昇志向が加わればいい。
年配者は後生に余計なことを言わず、個人の可能性を信じ引き出すことに意識を向けるべきだ。それが私たちのできる1つ目、そして、もう一つ、自分もまた挑戦する立場を捨てないことなのだろう。
作り話は面白い。ただ、嘘はいけませんという言葉を何度も浴びているうちに自由な創作ができなくなってしまった気がする。
小学生の頃、ノートに書いた話は宇宙船に乗って知らない星に行くという内容だった。たどり着いた星は地球そっくりで出会う人もどこかであったような人ばかりだ。違うのは自分がまったく別の扱いを受けることで、実際は地味なのにひどく英雄扱いされるといったようなものだ。オチはなくそれだけだ。
当時よく読んだ星新一のショートショートや松本零士の漫画などの二番煎じだが、それでも書くこと自体が楽しかった。中高生のときも書いたが何か暗い内容だった。それでも作り話に興じることができたのは、ある意味恐れを知らなかったからだろう。
それがいまはいちいち自己点検が入り、書くこと自体に夢中になれない気がする。どこかで書くことは無駄なことだ。そんなことをしてもなんにもならないという考えを持ってしまうのだ。
創作は基本的には自分勝手であらねばならないのだろう。それが期限内に他者の要求にも沿う形で実現できる人がプロの作家になれるのだ。私にはその才はないがせめて駄作を臆面もなく書けるようにはなりたいと思っている。
TikTokに代表される短い動画は耽溺性がある。ダンスや豆知識などの種類は見ていて楽しいが、中にはニュースや政策に関するものもあり、多彩だ。アメリカ人のかなり多くの人たちがこのショート動画を通してニュースを見ているらしい。トランプ次期大統領を支持した人の多くはこのニューメディアを情報源にしているらしい。
極めて短い時間で要点のみを強調して結論しか言わない。非常に分かりやすい。ただその反面、結論の根拠や都合の悪い事実が一切省かれている。あたかも作者の言わんとすることが絶対的に正しく、他は排除すべきもののように思えてしまう。冷静に考えればおかしいと思うことさえ、明快さと誇張の陰に隠れて見えなくなってしまうのだ。
メディアリテラシーが本当に重要な時代になってきた。自分で考えずによくできた話に安易に取り込まれる。その他の選択肢を考慮できない。そういう環境にいまはある。
悪意のある権力者が世論を支配することも容易だ。ファクトチェックというジャンルを最近よく目にするようになったが、これも世に欺瞞が横溢していることを示すものだ。チェック自体もチェックしなくてはならない。ただ、実際には門外漢には判別できないことが多い。少なくも鵜呑み即決は止め、立ち止まって考えること、そして誤った判断をしたら、訂正しやり直すことに躊躇しないことが求められる。自戒したい。