誰かを笑わせることは実は難しい。悲劇よりも喜劇の方が難しいとはよく言われることだ。そんなことはないと思う人は多い。コメディアンとか漫才師とか、そういう人はメディアに横溢しているし、身の回りにも笑いをとるのがうまい人がいる。そういう反論はあるはずだ。
でも、彼らの笑いの大半は前例をなぞったものであり、過去の笑いの模倣なのである。だから、新たな笑いの場を作ろうとすると途端に難題となる。笑いをとるのがうまい人はその型を心得ているということになる。
私たちが笑えるのはいろいろな条件が揃ったときであり、それがなければ笑いに至らない。例えば落語や漫才を見るときには、観客はすでに笑いに来ている。そのスイッチを適切に押してくれれば演芸としては優秀であり、それを追究しているのがプロなのだ。
例えば学生に喜劇をやらせてもうまく笑えないことがある。彼らには笑いの原理が分かっていないことがあるからだ。セリフや所作が上手くても笑えないことがある。観客に笑いの道に導く手順を怠ればどんなに上手く演じても笑えないのだ。
おそらくいくつかの要素の一つに、役者なり演じ手への親和性がある。自分を笑わせてくれるという信頼感がなければ、笑いの感情を発動できない。だから、評価されているコメディアンは登場しただけで笑いのスイッチを押すことができている。これは一般人には難しい。
笑わせることを追求するのはその意味で永遠の挑戦かもしれない。どうすれば人の笑いが取れるのか。既存の文言に頼らない笑いをどのように創出するのか。面白いテーマである。
