あくまで私の話だが、何かに感動するときにはそれを自分事として考えられるときであると思う。自分だったらどうするだろうという思いが浮かんだときに、感動のスイッチが入り始める。もちろん、それだけではないはずだ。でも、これまで感動したことを思い浮かべてみると、そこには常に自己との比較があるようだ。

こうした事例から考えると、私たちが感動するためには自己の経験の豊富さが関与してくるともいえる。自分事と考えるためには、類似する経験を持っていることの意味は大きい。さまざま経験を積むだけ、他者の行うこととの比較ができやすくなる。そこに発見があり、感激が生まれる。だから、芸術でも学術でも何かに感動するためには、自分側の経験の豊富さが大きくかかわってくるといえる。
その点で現代人が直接何かを経験することが減り、メディアを通して情報を表面的に知ったり、あるいは仮想的な空間で擬似経験しかしていない例が増えていることには問題があると考えれられないか。知っているつもりで実は知らないということは多い。分かっているといいながら自分がその立場に立ったことがなければ本当の理解は進まない。
もちろんすべての経験を個人が得ることは不可能である。例えば宇宙空間での作業は、ごく限られた人物しか経験できない。しかし、たとえば孤独の中で何かをやり遂げるとか、全く情報が遮断された状況で手探りで何とかやるべきことをやり終えたとか、そういう経験でも推測するのには役に立つ。そうした基本的な経験による学びは子どものころからいろいろなことを通して獲得してきたものであり、中には幼い遊びのなかにその萌芽があるものもある。
子どもに多くの経験を積ませることはその意味で非常に大切である。座学ももちろん大切であるが、いろいろな現場に立ち会わせることも教育の大切な側面と言える。感動する心が進歩を生み出す。次のものを作り出すためにも、まずは感動できる下地を作っておくことが必要ではないか。
