昔から花鳥に思いを託す歌は数多い。鳥を歌うとき確かに表現されているのは鶯であり時鳥(ほととぎす)であり、雁であり、鶴であるかもしれないが、表現しているのは歌を作っている人の心である。作者が悲嘆にくれていれば雁が音は悲しいものであるし、幸せならば別に聞こえる。それより以前に実際には近くにいてもその存在を認知すらしないかもしれない。

犬や猫を飼っている人の話を聞くと、その愛玩ぶりを語りながらどこかにその人自身のものの考え方が透けて見える。ペットに自分の生き方の理想を見ていたり、現実逃避する際の方便として使われていたりする。犬猫の目を借りて自分の在り方を映し出しているのだろう。
動物の場合はそれが分かりやすいが植物でも同じだ。植物も動物の一形態であることは誰でも知っている。そしてそれは大いに自己投影をしやすい存在であるということにもつながる。だから桜に移り気を感じたり、逆に微動ともしない潔さをみたりする。これも表現の手順から考えれば桜が潔いのではなく、そう見ようとしている人々が潔いことに価値観をもとめているのに過ぎない。多くの場合、現実には実現できない理想を生物詠を通して言語化している。
犬を歌に詠むとき、それは犬自体ではなく実は作者の思いが歌われる。そのようにとらえなおして作品を読んでみるといい。面白い発見がたくさんある。