マウント

 ここ数年よく聞くようになった言葉にマウントがある。相手より優位であることを意図的に示し、心的な有利に立とうとすることであるという。本来は物を乗せるという意味である。物理的に上に乗せなくても、コンピュータのプログラミングにおいて、一定のシステムを加えていくことにも使われている。また、格闘技では相手に馬乗りになり制圧すること、柔道における寝技のようなものを指すこともある。このマウントという言葉が頻繁に使われるようになっているのはなぜだろう。

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 様々な要因があると思うが、一つには自分の個性が埋没してしまうことへの反動にあるのではないか。格差が厳然としていた身分社会ではマウントは当然であり、改めて言うまでもない。不平等な日常の中で暮らしていれば、そしてそれが当たり前であれば優位を訴える必要もないし、劣位を悩むこともない。構造的な問題は長い時間を経て解消されようとするかもしれないが、短期的には精神的な葛藤はおきない。歴史に学ぶことで分かる。長く続いた封建社会の間の人々はどうして不満を訴えなかったのだろうかと考えれば、現代人が思うような人権なり平等の意識が希薄だったからというしかあるまい。

 現代社会でも格差はあるが、それは丹念に覆い隠されている。法の下に国民は平等であり等しく権利を持っている。実際にある格差はその許容範囲の中にあるものであり、暴動を起こして社会転覆をするまでもないことなのだと日本人のほとんどは考えている。それでうまくいっているのだから、世の中をあえて乱す必要はない。

 でも、この意識は人々を等質化するあまりに、個々人の存在価値を軽くする方向に進みやすい。平等ということはAさんもBさんも等価値であり、置き換え可能ということになる。それでは私の存在というものは機械のねじのようなものと考えるべきだろうか。心理的にはそうはいかない。だれもが自分は特別な存在と思っているはずだ。その意識の表れとして、私は人とは違うということをあえて表明することが起きる。どうせなら自分は他より優れていると言いたい。それがいまマウントと呼ばれている行為なのだろう。つまり、マウントをすることは強がりであり、場合によっては悲鳴のようなものだったのだ。

 マウントはおそらくする方より、された方が感じることが多い。それは先に述べた相手も自分も同じ資格・能力なのにどうしてことさらに自分が劣位にあると感じさせることを言うのかという批判、非難からの心理なのだろう。私自身もそう感じたことが多々ある。

 しかし、よく考えてみれば人間が等価値であることは幻想であり、人それぞれに個性がある。個々の技能や能力にもある基準を設ければ優劣が発生することもある。というより、みな違うのが当たり前だ。だから、私はお前より優れている、そんなことも知らないのかと言われたら、それを認めるしかないこともある。そして、そんな当たり前のことをなぜことさらに口に出さなくては済まないのかと憐れむべきだろう。たまたま優れた才能なり知識なりがあるのに、それをうまく使えず自分より少し知らない人に向かって自慢している程度なら、その能力は使えていないということの証だ。宝の持ち腐れ、もしくはその力の不足を嘆いているのだと同情すべきことである。

 私たちは平等の意味を考え直す必要に迫られている。平等とはみんなが同じというわけではない。本当は随分違っていても、それらを同じものとして権利を与えるための方便だということを考えるべきだ。社会が作ったかなり人工的な仕組みである。その仕組みを使えば多様な人々が共生できる。今の流行語のマウントはこのことが曖昧になっていることを表しているのではないか。

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