貧すれど

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 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

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