今回も自分に対して向けた文章である。最近、よく話を聞き終わらないうちに「要するに」「つまり」とまとめてしまう思考を自覚している。忙しい毎日はこれは都合がいい。詳細に立ち入らず骨子のみを把握しようとする。それはそれで間違ってはいない。ただそればかりだと肝心なものを落としてしまう。

文章を読解するときに、構造を考えながら読むというのは国語教師の指導のたまものである。大体、初めに話題を振って、時にはそれが問題提起型になり、具体例を挙げて、そのあとに自分の言いたいことと絡めて、結論を述べる。ほとんどの文章はそのように書かれている。今書いている文章もそのような感じだ。
忙しいとそういう読み方をして、細部を飛ばし読みする。人の話を聞くときもそうだ。愛想のために述べている部分を抜かすと、言いたいこととそれを言うための具体例とを繰り返す。本題の最初に言いたいことを短く言い、具体例のあと結論を言う。基本的には文章と同じだ。もちろん、思い付きで話を続ける人の場合は単純ではないが、基本的には同じだ。
こういう風に考えると「要するに」の思考がでる。いろいろ書いてあるが、いろいろ話しているが言いたいことは何なのか。それだけを知れればいい、という考えだ。これは恋愛映画を早送りにしてみる精神と同じだ。本当は言いたいこととは外れている部分に自分にとって重要な情報があるのかもしれない。あるいは筆者、話者の意見形成の本当の要因が隠されているのかもしれないのにも関わらず結論を急いでしまう。
忙しく情報量が多い時代には仕方がないのかもしれないが、速読速聴だけが能ではない。時には熟読、傾聴が何かの現状打破につながることもあるのではないか。大切なことを忘れてはいないかと思うのである。