月: 2022年1月

自称語

 古典を読んでいると自分の名前を一人称として使う例がたくさんある。ごく普通のことだったようだ。この言い方には実は隠れた効果があるのかもしれない。

 現代において大人が自分の名、それもファーストネームを使って一人称としたらかなり奇異な感がある。教養がないか、自意識過剰なのではないかと考えられるはずだ。その前に失笑されるに違いない。私たちにその習慣はない。幼い子どもを除いて。

 一方で別の意味から自分の名を自分で呼ぶことを推奨する場面がある。苦境に陥ったとき、自分を励ます方法として。自分の存在をメタ認知して俯瞰した自分から眼下の自分対して呼びかける方法なのだという。

 ドラマの登場人物などが台詞としてそのように言っていることはよくある。でもいざ私にもできるかと言えば、何かどこかに抵抗がある。

 自分の名前を読んでみる練習がいるのかもしれない。はじめは違和感ばかりだがそのうち自然に言えるはずだ。おそらくそれが天上の自分が完成したことを意味するのだろう。少し試してみたい。

煽るだけではなく

 オミクロン株の爆発的な感染は身近に迫っている。知り合いの中にも感染したという人が増えてきた。以前はニュースでは騒いでいるが周囲にはいないというレベルだったが、今は身近な危機である。咳がでるたびに自分も感染しているのではないかと思う。精神的にはすでに健康ではない。

 などと書いてしまうと、この文章の趣旨と異なってしまうが、あまり危機を煽りすぎるのは問題だといいたい。確かに未知のウイルスの展開には注目していかなくてはならないが、すでにその道を歩いている以上、これ以上脅しを入れても意味がない。ぬかるみはあってもしっかり歩けば必ず次の場所に着くのだということを確認していかなくてはならない。

 マスメディアは煽りの記事でアクセスを増やしている面がある。また個人のソーシャルメディアも不安を垂れ流すことで、その周囲もまた不安に陥る。不安なのは確かだが、それ以上の希望も積極的に発言していかなくてはなるまい。

 近年、不安が遠因となったと考えられる凶悪犯罪が散見されるようになっている。罪は憎むべきだが、それを醸成している世情にも原因を考えるべきだ。長い平和の期間に私たちの耐性は落ちている。もっと大変な環境で生きている人々はいる。

笑うことも必要だ

 やせ我慢も大切だろう。そしてそれよりも明るい方面を開拓するものの考え方も身につけていかなくてはならない。苦しい時こそ笑顔になれとは先人の教えだ。そういえば人を笑わす技術というものを教える機会はほとんどない。教わるものでもないかもしれないが、何もなければ生まれないのも確かだ。もっと笑いに注目してもいいのではないか。もっとも、誰かを笑わさなくては減点などというシステムができたら本当に笑えなくなるが。

学びの道具

 スマートフォンてゲームをしている大人が多いのは今に始まったことではない。ストレスフルの社会情勢の中で気晴らしや現実逃避の具として機能していることは確かなので否定するばかりではない。ただあまりにもそればかりだと心配になる。

 スマートフォンには学習型アプリもあるし、ニュースを読んだり、電子書籍リーダーにもなる。スマホで学習している大人が増えたなら、子どもたちにも変化があるかもしれない。

 だからゲームはやめましょうと言いたいのではない。いろいろな使い方ができ、場合によっては金の足しになったり、心を豊かにすることもあると考える人がもう少しいてもよいのではないかと思うまでだ。

人出減る

 オミクロン株の大流行に加えて受験シーズンであるからなのか、朝の人出がかなり減った気がする。感覚的なのもなので実証性はない。

 人流という言葉が使われることが増えたが、物流と対置されているように感じてあまり好きではない。ただ、今回の流行に関しては接触が最も危険なようだ。

少し減ったかもしれない。

 感染者の自宅待機期間がさらに短縮された。この処置を見る限りインフルエンザとあまり変わらない。コロナウイルスも最終的には流感扱いになっていくのかも知れない。

 ただ、まだ実態が摑めていないようで、早計はできない。何とももどかしいがこのままの生活を続けなければなるまい。

脳の体力

 昨日まで何度考えても分からなかったことが、今朝ははっきりと理解できる。そういう経験がたびたびあるようになった。特に近年はその経験が多い。

 悪戦苦闘して結局答えが出なかった経験は、よく考えてみれば午後のことが多い。最も仕事をしなくてはならない時間帯に効率が落ちてしまう。

 恐らくその原因はいくつかある。誰でもそうだと思うが、やらねばならないことが複数ある時、個々の事例に対する注意力は低下する。飛び込みでやるべきことが入るとさらに混乱を極める。午後はそうなることが多い。

 加えて、これが一番の要因と考えるのだが、脳の体力の問題である。朝にはあった体力が昼過ぎには消耗している。だから同じことをやっても捗らない。足の疲れならばすぐに実感出来る。それが脳の働きとなると自覚するのが遅れる。脳で判断しているのに脳のことが分からないとは皮肉な話だ。

 だからやはり古人の伝えの通り、やるべきことは朝やるべきなのだ。歳を重ね体力が落ちるとそれを実感する。若い人も恐らく同じだろう。気づかないだけだ。夜の方が捗るという人もいるが、自己暗示にかかっているのだろう。暗示をかける余裕すらなくなった私はやはり朝に賭けるしかあるまい。

活躍の場

 オミクロン株の感染力は凄まじい。感染者数の発表に関してはまた実感のわかない大量の域に行ってしまった。いろいろな人が感染する中で、考えなくてはならないことがある。

 組織の中で重要な役割を果たす人が何らかの事情で行動できなくなったときどうすればいいのだろうか。組織全体の力が低下してしまうというのは避けられまい。でも、バックアップするシステムを作っておけば被害は抑えられる。それどころか、現状打破の糸口になる可能性さえある。

新しい組織のあり方は

 そのためには複数のチームを持っておくことや、誰もがリーダーの視点を持てるような組織づくりを目指す必要がある。かつては日本は上下関係を基本とする個人間の関係が組織の基本になっているといわれた。いまでもその影響は多分にある。

 この国難を機に組織のあり方を変えていくのもよいのではないか。

機械の声

 駅のアナウンスなどで使われる機械による音声案内が、最近範囲を広げている。かなり人の声に近づいているものの、やはり味気なさを感じてしまう。

 電車の接近を知らせる放送はかなり前から機械の声になっていた。明瞭でありブレがないのはよい。微妙にアクセントや間が不自然に感じるのは許容してしまう。

 車内に流れる次の駅の案内は人の声の録音が多い。路線によって少しずつ違うのはそのためだ。個人的には東京メトロ半蔵門線の案内の声はとてもよいと感じている。

 コロナ対策感染予防を呼びかけるアナウンスは機械音声であり、かなり不自然に聞こえる。これなどもプロに委託すればよいのにと思う。安心度が違う。

 先日、常磐線に乗ったところ感染予防協力を呼びかけるアナウンスが、沿線のラグビーチームの選手と外国人監督だった。それぞれ日本語と英語のアナウンスをした。おもしろいアイデアだと思った。

知らなかった機能

 こんなこともできたのかと思う機能がスマホにはある。多機能過ぎて使いこなせていないということなのだ。最近色々と分かってきていちいち驚いている。

 例えば文書を写真で撮ってそれを補正してPDFファイルにするということは、iPhoneの純正アプリのメモに始めから付いていてアプリを付け足す必要がない。

 流れている音楽のタイトルやアーティストを知りたいときは、ミュージック検索機能がある。iPhoneでもAndroidにもある。メジャーな曲ならばほぼ間違えることはない。クラシック楽曲もほぼ言い当てていた。途中からでも検索可能なのがやはり機械ならではと思った。

 検索といえば画像検索は面白い。対象にカメラを向けて検索すると、それと似たものの商品がリストアップされ、ECへの誘導がある。価格表示もされる。この方の精度はいまひとつだ。というよりよく似ていても価格は多様であるというのが本当のところだろう。

 画像検索を人に向けると有名人なら名前を知ることができる。自分にカメラを向けたところ検索不能と出た。安い値段が表示されず一安心だ。

もっと簡単に

コンピュータを毎日使う日々が来ることは私が中学生の頃は想像できなかった。一部の科学者とか、特殊な職業の人だけが使うものであると考えていた。それが今は誰でも使う。おそらく一人一台では済まない。多くのコンピュータを使っている。

いわゆるパソコンというものはその中の代表だが、これに関してはいまだに操作が難しい。かつていちいちRUNなどと入力して始めていた頃に比べれば雲泥の差だが、それでもまだ難しいのだ。加えていま高齢者が使いこなせるパソコンがあるかといえばかなり難しい。自分が歳をとって分かったのだが、画面の文字の小ささだけでもう難しくなる。キーを叩くことも障害が出始めると難しくなる。音声認識もしわがれた声でどれほどできるのかが問題だ。

PC操作はいまはできても

コンピュータが人間の要求に答えられるようになるためには一段と開発が必要になるだろう。今はAIによる補完という考え方が主流になっている。衰えた認知力や記憶力、運動機能などをAIが予測して提供するというものだ。これにも様々な問題はあるが方向性としては間違っていない。杖か車椅子のような役割を果たすものを開発していく必要がある。

杖に例えたのは、あくまでも歩くのは人間であるということを言いたかったまでだ。車椅子の比喩もしかりである。あくまでも主体は人間でありそれを補助する道具としてコンピュータが活用されなくてはならない。

化けの皮

 これからは専門が一つという人よりも二つ以上の専門がある人が求められる。ある人が語っているのを聞き、最もだと思った。しかし、専門が二つというのは敷居が高い。

 でも、この専門という定義をどこに置くのかで話は変わってくるのかもしれない。資格があるというのは自分以外の認証であり客観性もある。ただ、自分が専門だと主張すれば専門になりうる分野もあるのではないか。ならば、多少大げさでもいいからこれもできると言ってしまうのも手ではないかと考えた。

 そういうはったりはすぐに化けの皮が剝がれる。しかし、はがれる前にその皮を自分のものにしてしまえば何とかなるのかもしれない。私の職業以外の専門は何だろう。まずは化けの皮を張る所から始めようと考えている。