学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。
職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。
古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。
しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。
相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。
