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記憶の作るもの

 私たちが世界を感じるとき、いま見ている現実とこれまでに経験したことの記憶との複合で概念を形成している。いまを見ていながら昔のことを考えているのだ。だから、その記憶が豊かであれば、感じ取れる世界は豊かであり、貧弱なものであれば毎日がワイルドなものになる。

 そのように考えると、いかに記憶というものが大事なものかと思い至るのである。記憶の前提となるのが経験であることは言うまでもない。豊かな経験を持つということはそれだけ豊富な記憶を持っているということになる。もちろんこの経験には自分が直接体験したこともあれば、書物や映像などを通して間接的に得た体験もある。

 記憶の特徴として、多くの場合、それが身体の感覚と結びついていることである。私は雪道で転倒し、顎を痛打した経験があるのだが、危機的な状況に陥ったときにその痛みをふと思い出すことがある。全身の神経が一斉に動き出す。それはまるでその時の痛みが再現されるかのようにである。

 こうした記憶の身体性とでもいうべきものは実は大切なものだと考える。私たちは記憶するとき、その内容をそのまま受け取っているわけではない。身体の一部やその延長にある過去の経験との複合で記憶を形成する。

 豊かな記憶を作ることが人生の目的ならば若い頃には様々な経験を積ませることに全力を尽くすべきだ。勉強させさえすれば人生の道が開けると考える親がいるのならば、考えを改めた方がいい。 

調整された記憶の量

 自分が生徒だった頃のことを実はほとんど忘れている。思い出というものはアルバムとか他人の話とか自分の記憶以外の手段によって再生され、その情報で上書きしている気がする。本当に自分が覚えていることは実は僅かであり、ほとんどが他人の記憶や記録との合成である。

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 何でも詳細に記憶することはできない。まして時間が経過すれば記憶の保存はほとんど期待できない。デジタル世界に慣れてしまった私たちはすべての物事が外部記憶として残ると何処かで信じている。しかし、肝心な自分の頭脳の容量は変わらないし、むしろ必死で覚えようとしなくなったことで退化しつつある。かつては家族と親戚の電話番号くらいは言えたはずなのに、いまは自分の電話番号でさえ忘れてしまうことがある。

 学生時代は学校と家との往復でほとんどの時間が費やされ、さまざまな出来事もそこで起きた。だから、濃厚な思い出が刻まれるはずなのに、数年経てば忘れ始め、数十年経てばかなり薄れて、先に述べたように他人の記憶の上書きが始まる。人間の記憶とはこの様なものであり、それによって人生は組み立てられている。

 私はこれは人類が進化の上で獲得してきた技能と考えている。過去の失敗体験にいつまでも囚われたり、成功体験が安易な過信にならないように記憶の能力を調節してきたのではないか。だからデジタル機器を使うのも大概にしたほうがいい。常に変化し続けている現実に合わせて対応するのが生き物というものである。過去の記録は今存在しないものの相互関係であり、あくまで参考にのみとどめるものとするべきなのだ。

疲労時の判断

 疲れているとき大きな間違いをおかしやすい。そういう経験をいくつも重ねてきた。その理由は何か。

 冷静になれなかったからという考え方は間違っていない。確かに疲れた頭で適切な判断をすることは難しく、それが失敗に繋がると言えそうだ。だがそれだけではあるまい。自分では落ち着いていたはずなのにと思うこともある。

 記憶の一部が阻害されるからという別解を考えている。ある程度の披露が蓄積すると、記憶の蓄積量が減り、目の前のことしか判断する材料がなくなる。普段なら過去の経験から、止めた方がいいと判断する選択肢を選ぶ可能性が高まるのではないだろうか。

 私たちが何かを考えるとき、常に目前の対象とともに過去の経験との照合を続け、最適解を探している。それが疲労時にはできなくなるのではないか。

 ならば重大な決断は疲労時に行うべきではない。時間のおいて再考すべきだ。どうしても決めなくてはならない時は、疲労する前に日常的判断のルールを決めておき、それに従うというやり方にするのがよい。

 経験的印象に過ぎないが記憶が体力に左右されるという事実は間違っていないはずだ。