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その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。

虚学は実学

 文学なんてやって何になる。絵を観るだけで道楽な人生を送るのは脱落者だ。そんなことが普通に言われていた時代に私は育ちましたが、いまそれは変わりつつあるのかもしれません。

 知識や技能などは実用にこそ重きを置くものであり、生産性のない教養は不要であるとの言をいくつもの見てきました。そういう人たちが行き詰まり、停滞しています。その習慣上新たなイノベーションに活路を見出そうとするものの、そういうことは容易には起きません。結果として失望の毎日を過ごすことになります。

 今日、エリートと呼ばれる人が芸術や文学に可能性を模索し始めているのはその反動ではないかと考えられます。行き詰ったら古典に変える、個々人の価値観を見つめなおすというのはこれまでも起きてきた思想史的な教訓です。現代人もまたそのことを思い出さなくてはならない事態になっているということでしょう。

 虚学と貶められていた学問が実は非常に必要であったという事実を私たちは確認する必要があります。どんなこともバランスが必要であり、一部が先鋭化すると必ずその軋みは弊害となってしまうということなのでしょう。

顔のない人物像

 先日、美術館で見た展覧会の絵の人物像にはなぜか顔の表情がはっきりと描かれていないものが大半でした。全体的に幻想的な画風であり、抽象絵画の趣さえ漂う筆致のため、さほど不自然ではありませんでした。顔のない人物像の持つ可能性を考えました。

 私たちは他人の感情、精神状態を視覚を通して判断することが多いのですが、そのかなりの部分に顔の表情という情報があります。喜怒哀楽は全身に表れますが、やはり表情ほど雄弁な部分はありません。その表情という重要な要素を敢えて省略することは画家にとっては大きなハンディのはずです。微笑んでいるひとを表情なしで表現することの難しさを考えるだけでもそれが察せられます。

 しかし、その負荷を敢えて負うことで拓けてくる可能性もあります。表情がない人物像を描くためにはボディランゲージに敏感にならなくてはなりません。また人物以外の要素、背景とか構図とかその他の要素に鋭敏になる必要性があります。そこで磨かれる表現力は大きな芸術性をもたらします。

 さらに、絵を鑑賞する側にも同様の効果があるはずです。不完全な描写の中に何を感じとることができるのかは見る側の想像力によります。その裏付けとなる人生経験そのものが問われることになります。

 表情を敢えて描かないという選択は画家にも鑑賞者にも大きな挑戦であり、可能性を秘めているのです。