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さらに涼しく

 今朝は時折小雨が降る重い曇天になっている。予想最高気温は20℃前後だ。涼感というより相対的に肌寒さを感じる。

 天気予報によるとこれから南海上を台風が通過するらしい。上陸の予報は劣勢になったが風雨はそれでも激しくなる可能性が高いらしい。嵐が季節を一層進めることは経験上知っている。彼岸過ぎてもう秋も半ばだ。

 やらなくてはならないことがいくつかある。それを始めるきっかけにしよう。秋の方が集中できることもある。

目標設定

 生徒諸君には目標を決めてものごとに取り組むことを勧めることが多い。これには訳がある。ただ、目標がなければだめな訳ではない。

 何かの目標を具体的にイメージした方がやる気が出るのは多くの人にあてはまるだろう。何点とるかとか、平均以上とかいう形なき目標ではなく、数学を克服して経営者もしくは投資家になる。文章力を上げて何かを執筆する。なんでもいい。私にとってはその方が内的動機づけに結びつく。

 ただし、目標を持つのが義務とは思わない。人により場合はよっては目標にとらわれず、その場その時に関心があることに取り組んだ方がうまくいくこともある。なんでも目標達成型行動パターンにあてはめるのは実態にあっていない。

 本当に大切なのは主体的に行動することであり、目標設定はその手段の一つにすぎない。

びよん

 電車の放送で英語のアナウンスが聞かれるようになった。今年行われるはずであったオリンピックに向けての対策だったのだろう。なかには中国語や韓国語の放送も入れる場合もある。多くは録音された音声だが、マイクを使って英語でアナウンスする車掌も時々いる。

 こうした取り組みはぜひ続けてほしい。日本のホスピタリティを形として示すだけではなく、語学への関心を高める契機になるからだ。特に車掌が直接話す英語を聞いた若い世代は、学習意欲を向上させるはずである。

 かくいう私はまるでできない。時々乗る路線の英語放送でビヨンとしばしば言うのが印象的だったが、かなり最近まで聞き取れなかった。どうやらbeyondらしい。分かると結構使われていることが分かった。こういうきっかけにもなる。身近に外国語を話す人がいること。それが自分の利害に関わることは語学上達に欠かせない。

9月折返し

 今日は15日であり、9月も半分終わったことになる。今朝はかなり涼しく感じる。秋は進んでいるのだ。

 自民党の総裁は大方の予想通りに決まった。金融緩和による日本経済の延命策をどこまで続けるのか。根本的改革に着手できるのか。少しだけ期待はしているが道は容易ではなさそうだ。

 季節が確実に進むように、社会のあり方も常に変動している。それを見通す眼力と、不屈の実行力とがいま求められていることなのだ。

マルチタスク

 コンピュータのOSのMS−DOSを始めたころ、マルチタスクという言葉があるのを知った。複数の作業を同時にこなす便利な機能を理解するまでには結構時間がかかった。機能の使いにくさというよりはその概念に私がついていけなかった。

 Windowsの時代になり、さらにコンピュータの性能が向上するとこれは当たり前になった。何かをやっている裏で別のことをするというのが当然の毎日になった。パソコンの中だけではなく、私たちの日常は常にマルチタスクで動いている。しかし、それを意識するとなぜかうまく身体が使えなくなる。

 紙面やアプリにやるべきことを書き出して頭を整理することはあるが、それをすることによってマルチタスクができる訳ではない。むしろ、それぞれの業務が断片化され、繋がりが消えてしまう。私の頭は意識的なマルチタスクにはいまだについてゆけてない。

 ならば、そつなくすべてをこなすという考え方を止めた方がいいのではないか。最近はそう考えるようになっている。集中して何かをやる方が結果的にうまくいくと。

価値を与える

 いま必要なのは価値の付与を行うことなのだろう。何もない、意味がないと思われているものに価値を与えることによって新たなチャンスが生み出される。それが昔から行われてきた革新というものの本質なのだろう。

 日常生活に埋没しているとどんどん見えなくなっていくが、実は毎日は非常に新鮮でそこにはなにがしかの価値がある。その価値を見出し、ラベルをつけて普遍化すれば人々が幸せになれる何かが見出されるのかもしれない。価値を見つけ、価値を与えることこそ現在社会においてとても大切なことなのであろう。

 そのためには日ごろから毎日をよく観察していかなくてはならないだろう。そして、日々の行動を悲観的にとらえるのではなく、むしろ宝の山のような魅力的なものとして観る態度が必要になってくる。それがもっとも大切なことであり、そこからいろいろなことにつながりが出てくるのだ。価値を与えることの重要性を改めて考えるのである。

避難

 避難訓練の後の講評で同僚の教員が話したことはかなり印象的なものだった。哲学に達するものかもしれないと感じた。

 津波のような差し迫った脅威が予測できるとき、人はいかに行動すべきだろうか。テンデンコという教えはまずおのれを守れということと理解している。いくら肉親を救うためといっても引き返してはいけない。失う命が倍になるだけだという訳だ。それも正論だ。

 ただ、ごくわずかな可能性にかけて人命救助に走る人は愚かなのだろうか。無謀という括りで纏めてよいものだろうか。それには大きな疑問がある。

 容易には決められない選択を私たちはいつも迫られている。正解は分からない。

8月尽

 公私ともに激動の月となった8月が今日で終わる。本当に色々あった。大半が人生初めての経験であり、繰り返したくないことも多数あった。

 その影響は今後も続くはずだ。長期的に残り続けるものもある。ただそれもいつかはそれとわからなくなってゆく。すべての物事は流転変容するとは古来からの教えであり、科学的にも説明されている。

 月という時間の単位を考案したのも叡智なのかもしれない。何かが変わるかもしれない。そんな予感を与えてくれるのだから。

自立のために

 主体的な行動をするためには自立が欠かせない。常に誰かにサポートされていると自分で歩くことができなくなる。自分の筋骨を使って歩くことは苦痛を伴うこともある。しかし、それが大切なのかもしれない。

 私たちは効率化ということに執心しすぎている。生産性と表現することもある。これらは確かにとても大切だが、それだけではない。効率性を築くにはたくさんの無駄が経験される必要がある。その中で飛躍が生まれることがある。始めから最短距離を走ることばかりを考えるようではうまくいかない。

 教育現場にいる私にとっては失敗をさせず、好成績を取らせることが評価基準になっている。果たしてそうなのだろうか。もしかしたら、これは間違っているのかもしれない。安全網を用意しながら、生徒諸君にいろいろな失敗体験をさせることが、本当の教育なのではないか。最近はそのように考えている。

立て直し

 最近、個人的にさまざまな困難にあって消耗している。おそらく数年後に振り返ることがあればさほどでもないのかもしれない。ただ、現在の自分の器量にとっては辛い局面にあることは事実だ。

 下降局面は何もかもが恐ろしく見えるものだ。ただ、下降したままの状態が続くはずはない。すべては波のように繰り返すのだ。だから、落下しても目を閉じてはいけない。次の段落のストーリーを考えよう。

 何か新しいことを始める機会でもある。まだ見えていない風景を楽しみにしよう。周りの人が幸せになることをしよう。それがおそらく今できることなのだろう。