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贈答禁止の余波

職場で贈答品授受の禁止が通達されました。関電の事件が影響したもので、企業側から自主的に送られたものについても断り、返品することが求められるようになりました。

 趣旨自体はよいことであり、遵守すべきだと感じています。贈答のためのコストを商品そのものに反映させた方がよいのに決まっているからです。

 ただ、少しだけ困ったことがあります。毎年楽しみにしていたきれいな写真のカレンダーやちょっと重いけれども十分に使える企業名入りの手帳などもまた禁止されてしまったことです。旅行会社のものはかなり使いやすいものでしたので残念です。

 カレンダーや手帳についてはいわゆるバレットジャーナルを始めたためにほとんど必要がなくなり、カレンダーは百均にいいものがあることを知りました。当面は問題なく過ごせそうです。ただなくなるとちょっとさびしくなる。これからこういう感情を持つことが増えそうです。

時間の平面化

 手帳を更新する季節になりました。かつては歴史手帳を愛用し、その後産能の手帳を使うようになっていた私ですが、いまはただのリングノートと、ネット上のグーグルカレンダーとを利用しています。どのような形であれ、私がやろうとしているのは形なきものの可視化です。

 時間の流れを可視化するのは手帳の大きな役割といえます。実は切れ目なく流れていくだけの時間に切れ目を入れ、価値を見出していくのは人間の叡智です。それを実際に紙面に記号化していくのが手帳の役割といえます。

 丸印や矢印には時間に価値を与える意味が込められています。略図を付けたり色づけすることでその意味は一層顕著になります。複雑な現実を極力単純にするのが手帳の役割であり、その中で整理がなされる訳です。手帳をつける理由は時間の平面化という変換にあるわけです。

 ただ、手帳を書くという行為自体が時間の流れの中で行われるために、その行為自体がエントロピーの増大に晒されてしまう。単純化が目的だったことを忘れて次々につけたしを始めてしまうのです。手帳をつけることは常に時間軸から抜け出そうとする行為なのかもしれません。

西向く侍

 気がつけば11月も最終日です。小の月を覚えるのに西向く侍という覚え方がありますが最近は知らない人も多いかもしれません。

 小の月を並べてみると二四六九と十一月になりますが、最後の十一という漢字を縦書きにしてくっつけると武士の士に見えることから、侍と読んで語呂合わせをしたものです。侍が西を向いているという状況に無理はなく、何らかのストーリーさえ感じられますので覚え方としては上出来なものです。

 小の月は何か一日損をした感じになることがあります。もう一日(2月ならばもっと)あるはずなのにそれができないという感覚です。逆に得したと思うこともあります。月俸制の人にとってはプレゼントのように感じるでしょう。何ごとも考え方次第です。

 小の月のつごもりの翌日は時計のカレンダー合わせの日でもあります。日付表示機能のついている腕時計はこの日に竜頭を回します。もっとも最近の時計はカレンダー調整を自動でやってくれるものが多いのでこの作業は減りました。

 月の長さが一様ではないことは、私たちの生活が単純には割り切れない自然の摂理に基づいていることを思い出させてくれます。これは意外と大事なことなのかもしれません。

建物の寿命

 まもなく開業する南町田グランベリーパークの前進グランベリーモールは20年に満たない期間で取り壊されました。耐用年数は建て方によって異なるとはいえ、意外にも短い建物の寿命を感じさせます。

 かつて人類が急に消滅したらどうなるのかというSF映画がありました。荒唐無稽の設定ながら環境破壊に対する問題提起がなぜか印象的でした。この作品に関連して人類消滅後の地球の変化のシナリオを特集する番組がいくつか作られました。それによると人間が造り出したものの多くは意外にも早く地上からなくなってしまうらしいです。

 コンクリート製の建造物の多くはメンテナンスがなされなくなると崩壊してしまう。ビルや橋脚などはある日突然瓦解してしまうそうなのです。私たちが永遠と幻想しているものの大半が、実は弛まぬ努力によってようやく存在している訳です。

 鳥や虫の作るすみかをみて感じる脆さ儚さは実は人類にもそのまま当てはまります。私たちは自分の人生の長さを基準にして時間の長さを感じているのに過ぎないのです。ものやことの寿命を考える時に、それを測るものさしが何なのかを今一度考える必要があります。

手に負える時間

 常に忙しく暮らしている私ですが、多忙の中にも何とかなるときとそうでないときとがあります。時間は平坦に存在している訳ではなさそうです。

 ルーティンワークはいくら多忙でもなんとか切り抜けてしまうことが多いものです。場合によっては多忙であることに麻痺していることもあります。私の場合は朝の一連の動きについてはやることが多いのにあまり印象に残りません。

 対して普段やらない仕事や突発的に起きたことなどは重圧となって心にのしかかります。あとから考えばさほど大変でもなかったことに、多いに緊張し打ちのめされます。そういうことに当たるときの多忙感は非常に大きなものです。

 私にとっては手に負える時間と負えない時間とがあることになります。手に負えない時間が精神的負担をもたらすのならば、その時間を飼いならすための方法を考える必要があります。色々な克服法があり、さまざまなアドバイスもありますが、根本的な解決はできません。むしろこの時間帯はうまくいかないことが多いものと割り切らなくてはならないと考えた方がよさそうです。そのあとに手に負える時間がくるはずですから。

 時間が人間とは無関係に存在するものとは最近は考えられなくなってきているのです。

引き算ではなく

 働き方を変えるという号令は少なくとも一部の企業には影響を与えています。どちらかといえばトップダウンの動きとして就業時間が短縮されつつあります。

 働き方が時間の問題とだけ捉えられると様々な弊害が起きます。時間短縮だけで業務内容が変わらなければ、結果的に緊張感が高まるばかりであり、かえって労働者のためにはなりません。業務そのものの見直しが不可欠です。

 以上のような議論は最近よく耳にするところです。この考え方の基本はマイナスにあります。溢れ出している労務の削減ばかりが注目されています。しかし、この考え方には発展的な志向性が見えません。現状維持事態が困難な状況にあって引き算ばかりを繰り返すのはいい結果をもたらさないでしょう。

 引きながらも実は強固になるという考えを持つべきだと考えます。単なる減算ではなく、同時により高度なシステムを構築するという気概が欠かせません。時間的にも人的にも限られた中で効果を発揮する方法の模索です。これは撤退というよりは新機軸の開発と考えた方がよい。

 働き方改革は新形態への転換のチャンスと捉えるべきだと考えます。

突発的な回想

 何かをきっかけとして過去のある場面が突然想起されることがあります。それが特にこれといって何か印象的なことが起きた記憶とは限らず、場合によっては日常的な風景であったりするのです。

 どうしてこの風景が思い出されたのか分からないときには、色々な理由を考えます。ただ、そのどれもが後付けのような気がします。おそらく記憶がフラッシュバックするにはそれなりの因果関係があるのでしょうが、それは日常の論理とは少々異なっているのでしょう。

 思い浮かんだ風景に救われることもあります。忘れていた何かを思い出すことで救われた気持ちになることもあるのです。苦い経験もそれを乗り越えて今があるということを再確認させてくれます。

 少なくとも記憶という側面に関しては私たちは時間軸というもう一つの次元を持っているといえるのかもしれません。それを自在に操ることはできないのが残念ではありますが。