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帰省できないために

 盆休みは都心部にとっては閑散期になることが多いのだが今年は様子が異なる。外出を自粛する人や猛暑の関係で抑制的ではあるものの例年のこの時期と比べるならば明らかに人が多い。恐らく帰省を控える人が多いのだろう。

 不謹慎かもしれないが東京ではコロナ対策をしていると言いながら、結構自由なところも多い。マスク着用、消毒液設置は普通になされているが、それが効果があるのかどうかの検証はされていない。また、感染者の隔離というのも本人の自主性にかなり任されている。最近は連日数百人の感染者が加算されているが、その割には周辺に感染した人はいない。密なる状態の定義もあいまいであり、これを日本式というならばかなり緩い。

 東京およびその周辺は多くの人を抱えたまま盆を迎えている。恐らく郷里で待つ親たちには実に残念な夏だろう。いやゆっくりできていいのかもしれないが。

久しぶりの散歩

 今日から休暇に入った。朝、ちょっとした散歩に出かけることにした。かつてはジョギングをしていた境川の川べりを歩くことにした。かなり気温が上がっているがジョガーや自転車を走らせる人と何人も出会った。

 境川はその名の通り、東京と神奈川の境を流れる小河川である。護岸工事が施されほとんど天然の河原は存在しない。そのかわり人が近づけない動物の聖地になっているともいえる。今日はアオサギがゆっくりと歩いているの見た。この川には他にもカモなどの水鳥がよくみられる。鶺鴒やカワセミといった小鳥もよく見かける。

 短い夏休みの体力維持のためにこの川の風景を何度か見に来ることなるだろう。

境川

身体ならし

 今日は夏の日差しが降り注いでいる。気温も上がっている。酷暑とまではいかないが体調に影響を及ぼす暑さだ。いつもならば当たり前のことなのだが、今年は少し事情がちがう。

 マスクを着けたまま外を歩くのはやはりつらい。息苦しさはもちろんだが、口から発散される体温がうまく放出できない気がする。科学的に合っているのかどうかは分からないが。通り過ぎた婦人が連れた飼い犬の息がいつもより荒そうにみえるのは気のせいだろうか。

 冷房のもとに逃げ込むのも手だが、少し体を慣らしていかなくてはならないと思い、散歩をしてみた。周りに人がいないときはマスクを外して歩くべきだと考えながら、結局つけたままだった。ならしはこれからも続けなくてはなるまい。

雨模様

 東京はしばらく雨模様の天気予報が出ている。今日も折り畳みではなく、普通の傘で出勤している。

 考えてみれば7月は梅雨のただ中で雨が降る日が多い。しかもかなりまとまった雨量になることがしばしばある。それなのに梅雨といえば6月を連想し、7月はそうでもない。それは7月末の強烈な暑さがまず想起されるからだろう。土用あたりの猛烈な暑さがこの月のイメージを圧倒してしまう。

 私たちの印象というものは単純化に向かう。イメージがどのように形成され定着するのかは考えてみなければならない。

 まもなく猛暑の期間になるはずだ。

見方次第

 最近、視力低下に悩んでいる。細かい文字が見えなくなったのは本当に困る。ときには腹立たしく感じることもある。

 加齢による宿命だと割り切ることはできる。同年輩以上の大半の人が同様の症状を訴えているのを見聞きすると、どういう訳か慰められたり、諦めがつきそうな気持になったりする。しかし、それでも残念に思う心の方が勝る。

 よく見えないことはいろいろな局面で不利益をもたらす。注意力とか推察力に負の要因をもたらすのはもっとも困った要素だ。日常のコミュニケーションにも目は口ほどに、いやそれ以上にものを言うはずなのに、それがうまくできない。

 ただ、よく見えないことがある種の恩恵をもたらしているのかもしれないなどと考えることもある。繊細な情報を削減することで精神的衛生を保てているのかもしれないからだ。最近はそう考えるように努めている。

万年筆の話

 このブログを海外から読んでくださっている方がいるらしい。ありがたいことである。日本語でしか書いていないので、日本語ができる方が読まれているのだろう。このブログは機械翻訳にかけても、意味が通じるような日本語で書きたいと考えている。

 今日は万年筆の話をしたい。日本製の万年筆はかなり優秀である。私が使っているのは安価なものばかりだがパイロット社のエラボーという名の万年筆は大変気に入っている。ペン先は特徴的で柔らかく、カリグラフィーにも使える。日本語は画数が多い漢字と曲線の多いひらがなが混在するため、万年筆にとっては要求される要素が多国語に比べて多い。それに見事にこたえている。日本製の万年筆を知らない人はぜひ試してほしい。きっと感動するはずだ。

 日常的に最も多く使っているのはパイロットのコクーンという安価な万年筆である。鉄製のペン先で高級万年筆のような滑りのよさはないが、それでもどんな筆圧でも対応してくれるような良さがある。日常的にはこれを多用している。

 外国製では学生時代はモンブランを使っていた。インクが乾きやすいのが難点であり、日本語を書くには硬めの漢字もした。でも所有欲、つまり持っていて自慢できる何かを持っている万年筆だった。ただ、いまはほとんど使うことがない。

 最近使っている万年筆は初心者向けのペリカーノジュニア―という学生用万年筆だ。これは家庭で気楽に使っている。私はコンバーター派なのだが、これだけはカートリッジを使っている。専用のカートリッジはかなり特徴的な長細いものである。この万年筆はおそらく小中学生に向けて作られているのだろう。持ち方を矯正するような形になっている。書き味はかなり大雑把である。それにインクの供給も日本製ほど繊細ではない。日本で使っているからかもしれない。ドイツの製品を悪く言うつもりはない。

 それでもこの子供用万年筆には十分な魅力がある。何というか自由になれる雰囲気がある。日本製にも似た種類があるが、それよりも非日常を味わる。これは全くの主観だ。インク供給が止まるたびにキャップをして振り回す。するとまたインクが出る。このわずらわしさも魅力だ。私はこのペリカーノジュニアを使ってエッセイを原稿用紙に書いている。太字で大きく書かれる文字は不断の縦横が交差する文字とは違う日本語を書いているような気になっていい。いつもとはちがう文章が書ける気がするのだ。

履きつぶし

 通勤に使う靴を買いました。私は安い靴を履きつぶしては乗り換えています。ところがどうもこれはあまりよくない方法のようです。

 靴は歩行によって大きなダメージを受け、さらには水分などの付着で変質しやすい環境に晒されるために、一定期間回復の時間を設けた方がいいようです。結果的にその方が長持ちするし、型崩れもしにくいようなのです。

 今度はそうしようとおもいながら、また同じことを繰り返し始めています。

鮎釣り

 子どものころ、父に連れられてよく釣りに行きました。海や川に毎日曜に連れられて行った記憶になっています。水面に向き合う時間はいまとなっては贅沢なものですが、当時の私にとっては多分に退屈なものでした。

 釣り人にとって別格だったのが鮎釣りでした。父はもっぱら毛針でやっていましたが、ころがしや友釣りなどの特殊な釣りをする人をみるのは楽しみでもありました。滅多に釣れなかった鮎でしたが、それでも数匹を手にすると父は大変機嫌がよかった。鮎は特別な魚だったのです。

 大人になってからは店頭にパック詰めの鮎が並ぶのをみるようになりました。それでも釣り上げたあの魚とはやはり違うと考えてしまうのです。

値段じゃなくて

 Googleレンズというアプリで画像検索すると、出てくるのは商品名と価格です。値段を調べたのではないのにと複雑な気持ちになりました。

 そのうち人物を検索すると何かが数値化されて出てくるのかとSF小説的な発想に陥っています。おそらく自分の映像を検索すると… もう想像すらしたくない。