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後押し

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 小学校や中学校の頃の記憶は実はかなり薄れている。自分が中学校の関係者であるにもかかわらず、自らの中学生活は印象が薄い。でも、今でも覚えているのは自分を後押ししてくれた仲間や教員だ。

 人間の記憶というものは残念ながらあてにならない。昨日の朝食のメニューを思い出せないのは決して脳に異常があるわけでない。覚える価値を見出さないものはすぐに忘れるし、忘れたくないこともいずれは消え去ってしまう。これは紙に書いてもビデオにとっても同じだ。記録してもその時の気持ちは消え、記録の読者にしかなれない。

 でも、自分のことを助けてくれたという記憶はなぜが残る。詳細は忘れてしまうが、深い情動というか気持ちの流れというものがいつまでも再現できることがある。私たちの記憶というのはそういうものなのかもしれない。

 教員などをすると、人のためになることをしたいという甘い夢を持つ。知識を授けることで進路を開拓できる力を授けることを目的にする。それも正しいが、勉強は結局は自力で行うものであり、どんなに名講義をする先生に習っても自分で学習しなければ分かったつもりにしかなれない。大事なのは何かに立ち向かうことを後押ししてくれる存在だ。教員でなくてもこれはできるが、教員はそれを職業的にやりやすい立場にある。さらに生徒の皆さんも受け入れやすい。道端の他人よりはアドバイスはしやすいという意味である。

 ならば私たちの仕事はやる気をおこし、困難に立ち向かう勇気を与えることや、失敗したときにそれでもいいのだと慰めることが第一だということになる。私自身、消えた小中学校の思い出の中で、自分を救ってくれた人たちのことは覚えている。中には名前を思い出せない友もいるが、確かに彼らのおかげで今の自分がある。

情報処理重視

考えるには時間がかかる
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 あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。

 もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。

 私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。

 伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。

考え方を教える

これが理想ですが

 最近、教育の世界で繰り返されるは知識の単なる伝達では意味がない、教えるべきことは個々の情報ではなく、その扱い方だと。つまり、考えることそれ自体の方法を教えるべきだということだ。

 メタ学習の方法を教えることは実は簡単ではない。教員にとって最適な学習方法だと思っても、それがすべての人に適合するとは限らないからだ。できれば生徒一人ひとりの気質やコンピテンシーにあった方法を提案するのがいい。それがいまの教育システムでは難しい。

 難しいからやらないというといつまでも進まない。あえて完全な理想型は求めず、できることから始めたい。考えられるのは小テストなどで誤答の傾向を知り、それに応じたやり方を提案することだ。幸い答案の分析などはコンピューター解析ができようになりつつある。

 国語の教員なので古典の学習を例に取る。文法の問題を間違えることが多い生徒は、基本的な約束が曖昧な可能性がある。主語を判別できない生徒は、述語との対応を軽く見ている可能性がある。それをある程度指摘してそれに対処するための方法を示すことが大切だ。

 そこで私のような世代はプリント課題を与えて補講をしてと考えるのだが、そんな余裕は教員にはない。手持ちの問題集のどの部分を学べばいいのかを示し、それができたかを確認するだけでも効果があるのではないか。やり方は示すが、何をやるかは生徒に任せた方がいい。その方がお互い幸せだろう。

 この方法で大切なのは繰り返し行うことだ。それを行うことで次第に学習習慣はできていくのだろう。もちろん何を言っても無視されることもあるだろうが。

 そして、この方法の大前提として学ぶことは一本道ではないということを強調しておく必要はある。すぐに理解してしまうこともあれば、なかなかうまくいかないこともある。それは個性であり、持ち味でもある。速く点数が取れればいいというわけでもない。短期記憶の処理で終わってしまったり、その分野だけの知識として応用ができないのなら将来的な学習の意味は薄い。ゆっくりしっかり学んでいこうと繰り返したい。

 学び方を教えることは中等教育の教員の責務ではないか。新学期はこれをもう一度思い出したい。

答えは何ですか

 情報処理に偏重した教育を続けているとうまくいかないことがある。それは考えなくなるということだろう。考えずに答えろというのは大矛盾であるが、残念ながら日本の教育はそちらを向いている。

 大量の問題を短時間で解くことがいまの教育の流れである。いかに要領よく、無駄なく解答するかを評価の基準にする。いかに速く解くかを鍛える過程に、深く考えるというコンピテンシーは不要だ。邪魔でさえある。結果として考えない人を大量に生み出す。

 このような人材は現代日本に必要なのだろうか。容易に機械化されそうな仕事にしか就けないのではないだろうか。それよりもっとよく考え、他人と協力して難題を切り抜ける力の方が必要ではないのか。

 最近の生徒諸君は答えをすぐに求める。それに付随する話をしても無関心であり、結局テストには何が出てどう答えればいいのかを聞く。優秀な生徒もそうなりつつある。とても不安な現実である。

地域の部活動

私が教えてあげよう

 学校の課外活動が中心の部活動はいろいろな意味で行き詰まっている。多くの学校は教員が顧問を兼ねるため、専門的な指導ができない。活動が終わるまで教員は帰れず。怪我やトラブルがあると勤務時間が限りなく伸びる。生徒にとっても教員にとっても幸福な状態ではない。

 以前から提案しているが放課後は校舎の一部を地域の指導者を迎えた文化センターにするのはいかがか。監督責任等も別のシステムで運営すればいい。地域の経験者等の指導を受け、教員は正課の教育に専念できる。

 もちろん指導員としての資格はある程度保証しなくてはならない。特に子どもに接する以上、人格的な問題は大きい。スポーツ指導は優れていても過酷な練習を課したりいわゆるえこひいきの激しい指導者は止めてもらいたい。これらを管理監督する部署を設けるべきだと考える。当面は地域での実績がある人や元教員などがあたれば良い。

 地域の人が地域社会に貢献できるということは様々なメリットがある。わずかだが雇用の数も増やせる。試合やコンクールが学校対抗ではなく、地域の力の競い合いになれば勝っても負けても紐帯を強める力となるはずだ。

爺ちゃん先生

 

先生はいませんか

 教員不足が一部で深刻化しているという。本来、教壇に立つ予定はなかった管理職の教員が臨時で代講したり、複数クラスを合同にして急場を凌いでいるらしい。教員が不足することはかなり前から予測されていた。それなのにこの事態に陥っているのは行政の失策が大きく関与している。

 資源のない我が国は人材こそ最大の資源だと言われ、教育には最大限の支援をするべきだとはよく言われることなのに、実際にはそうなっていない。東大を始めとする難関大学に合格させることのみを目的とする一部の教育と、そのほかの悪しき平等主義の教育しかない。結果としてまったく平等ではない格差教育が行われている。

 魅力のない教育の世界に敢えて身を投じようとする優秀な人材は少ない。他に楽でやり甲斐があり、高給が保証されている仕事の方を選ぶ。当たり前だろう。その結果、少子化なのに教員不足という異常事態に陥っているのだ。

 高齢の教員を再登板させて何とか切り抜けている現状もある。これも一案ではある。かつてほど老け込むのは早くはない。定年をあげて働ける人は続けていただくのは確実な方法だ。経験も役立つはずだ。お爺さんお婆さん先生にご活躍いただこう。

 でも、究極の解決法は若い教員の人材を増やすことだ。労働条件を改善するとともにある程度の高い賃金を約束しよう。中途採用も積極的に行うべきだ。私はこうした議論が一向に深まらないのは大問題だと考えている。

気持ちを込めて文法学習

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 Youtubeで英語学習について述べているものを見て参考になったことがあるので記録しておく。英語の習得の際、やはり文法学習は必要だが、それを型で覚えるのがいいという。さらに覚える際には感情をこめて文を記憶するのがいいらしい。

 言葉が情を表すものである以上、これは当たり前のことだ。にもかかわらずあたかも数式のように文章の型を覚えてもなかなか身につかない。その表現がどのような場面で使われ、どのような感情とともに述べられるものなのかを意識することが大切だというのだ。全くその通りである。

 古文を学習する際にも同じことが言えるのではないかと考えている。たとえば現代語には過去と完了の助動詞の区別がほとんどない。「昨日着いた。」も「いま着いた。」も同じ「た」で表現されるから、古典語に「き」「けり」と「つ」「ぬ」「たり」「り」の多彩な助動詞があることが理解しにくい。「なり・に・けり」のように完了も過去も同時に使われる文に至っては意味をつかみにくい。そこで、感情とともに記憶するという方法がよいと思われる。

 この方法を教えるためにはショートコントのような場面設定を作り、実際に演技させるのがいいのではないか。「夏は来けり」と「夏は来ぬ」の違いを演技で覚えてもらうのだ。これができれば推量系の多彩な助動詞群の差や、現代語以上に微妙な使い分けをする心情表現語の違いなども実感して覚えることができるかもしれない。そのための「台本づくり」が大切だと思っている。

ワイヤレスでプレゼン

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 授業でSurfaceを使い始めていろいろできることが広がった。私の機器は最低スペックの機種なのでパソコンでやる仕事をそのまま持ち込むと問題が生じることが多い。だが、パワーポイントのスライドを見せたり、ブラウザの画面をスクリーンに映すといった用途に限れば十分な性能だ。

 職場には備え付けのプロジェクターがあるのでこれに最初はケーブルを使って接続していた。問題はないのだが学校の授業のようにある程度動き回らなければ生徒の緊張感が落ちてしまうような場面では、動けない存在は少々都合が悪い。そこで無線でつなぐことを考えていたところ、実にいいものを見つけた。MicrosoftのUTH-00036というワイヤレスHDMIアダプタだ。これはHDMIにつないでその信号を無線化して飛ばすものだ。Windowsにプリインストールされている制御ソフトに接続すれば、端末の映像を転送することができる。手元でパワーポイントの操作をすれば、遠くの大画面が変わるという寸法だ。

 これはかなり便利だ。問題点としてはこのアダプタにも電力供給が必要であるということだ。そのため、タイプAのUSB端子がついている。テレビなどでは背面のUSBにつないで電力を得るように設計されているが、私の職場はHDMIの近くにUSBはないため、モバイルバッテリーをつなぐことにした。スマホ充電のバックアップ用のものだ。授業は連続でも3時間は超えない。今のところ、ほどほどに充電しておけばこのくらいの時間の耐久力はある。転送時に多少の遅滞があることも事実だ。しかしこれもゲームの中継でもない限り気にはならない。

 教室の後ろから黒板を書くはかつての夢だった。どうしても教室の後ろの生徒は緊張感を欠きがちだ。それが教員がすぐ近くで話をし、黒板(ホワイトボード)には手元のタブレットの画面が映り、電子ペンで書き足したものも投影される。ビジネスの世界では当たり前なのかもしれないが、こういう方法は教員も考えた方がいい。

 もっとも席替えでせっかく後ろの席を勝ち得た生徒諸君にとって私の徘徊が非常に邪魔なものであることは察して余りあるが。

伴走

 パラアスリートを支える伴走者の存在は私にとっていい刺激になっている。伴走者は競技者より優越的な立場なのだろうかという問いをしてみる。

 視覚障害などでガイドを必要とする競技者にとって伴走者は大切な存在だ。ただ間違ってはいけないのは伴走する人が競技者を牽引しているのではない。あくまで傍らにいて方向を伝えているのにすぎない。それが声によってなされているのか、何らかの身体的合図によるのかは分からない。とにかく引っ張っているのではないということだ。

 素朴な疑問として伴走者が走れなければそもそも走れないのではないかということがある。競技の成功は伴走者の走力次第なのではないかと。これはある程度は正解かもしれない。しかし、前述したように伴走者は牽引するのではない。アスリートと同等の力があればいいのだ。

 一流のパラアスリートの伴走をするためには自分も同様に鍛えなくてはならない。ともに練習し同等の走力を発揮できるようにしておく必要がある。これは大事な視点である。

 教育の世界でも教員は牽引者ではなく伴走者であるべきだという考えがある。ともに走るようにともに学ぶ。時には生徒側の走力、つまり学力が急進することもある。その時のために日ごろからトレーニングは欠かせない。思わぬ時にダッシュしてもついてもついていけるように。

子供にパソコンを持ち運ばせると

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 教育の世界でパソコンやタブレットの使用機会が増えている。一人一台の端末を持たせるというGIGAスクール構想もあり、これから先も普及してくはずだ。しかし、パソコンやタブレットを子供に持ち運ばせることに関して私は賛成しない。重く、壊す機会を増やすだけなのになぜ通学カバンに入れる必要があるのだろう。私の職場でもパソコンの修理は頻繁に行われている。

 スマートフォンでさえ、子供はよく壊す。オークネットの調査では年代が低いほど修理の必要な不具合を発生しているいう。使用の頻度が若い層の方が高いので当たり前だが、それに加えてデジタル機器に対する扱いがぞんざいであることや、ICTが貴重なものであり、様々な生活に深く関与する機器であるという自覚が少ないということもある。

 まして持たされたパソコンやタブレットをおしいただいて持ち運ぶという考え方があるはずがない。多くの子供にとって無理やり持たされた教科書同様、重たくて厄介なものの一つに過ぎない。それを毎日カバンに入れて持ち運べということの方が間違っているのではないか。

 ICTを使いこなす人材がいらないというわけではない。通学途中にパソコン類はいらないだろう。教育の中で活用するというのなら学校にいる間だけコンピュータが使えればいい。ならば投資すべきは生徒が一人一人使えるパソコンの収納ロッカーと充電設備だろう。学校からは持ち帰らない。宿題は紙ベースで行うというのが実は一番いいのかもしれない。少なくとも義務教育まではそれでいいのではないか。

 日本のメーカーは機能を絞った学校用端末を作って世界に売り出だすべきだ。教材やハードのメンテナンスも含めた教育サービスを売ることで、この業界の復活ができる。そのためにはただ子供に端末を持たせればいいとしている現状を分析して、現実に合ったものに変えていくのがいい。