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虚像を追いかけて

 戦時中の生活を知ると現代がいかに幸福であるのかを痛感する。現代の生活も決して安易ではないが、それでも過去の困窮に比べると殆ど無風と思えるほど恵まれている。絶対値はないが、現代が過去に比べて幸福であることは間違いがない。

 ならば現代人は幸せの毎日を生きているのかといえば、そのようなことはなく、むしろ未曾有の不幸のどん底にあると答える人もいるだろう。実感のない幸福という概念は、しばしば権力者によって本質が隠される。何が幸せなのか分からなくさせられる。

 現代社会を組み立てている人たちが作り出した幸せという虚像を多くの人が無意識に追いかけてしまう。そして多数の人はそれが達成できずに潜在的な不幸感を持ってしまうのだろう。

 幸福のあり方は人それぞれであらねばならないのに、それをいくつかの物差しを当てて数値化しようとする。これこそが現代の不幸そのものなのだろう。そしてそういう仕組みの上に立っている社会や経済の仕組みをどうすればいいのだろう。

 個々人の幸せの尺度を自分で決められるようにすること、他者の物差しを認めることが必要だ。もちろん他者に迷惑をかけることは許されないが。

煽るだけではなく

 オミクロン株の爆発的な感染は身近に迫っている。知り合いの中にも感染したという人が増えてきた。以前はニュースでは騒いでいるが周囲にはいないというレベルだったが、今は身近な危機である。咳がでるたびに自分も感染しているのではないかと思う。精神的にはすでに健康ではない。

 などと書いてしまうと、この文章の趣旨と異なってしまうが、あまり危機を煽りすぎるのは問題だといいたい。確かに未知のウイルスの展開には注目していかなくてはならないが、すでにその道を歩いている以上、これ以上脅しを入れても意味がない。ぬかるみはあってもしっかり歩けば必ず次の場所に着くのだということを確認していかなくてはならない。

 マスメディアは煽りの記事でアクセスを増やしている面がある。また個人のソーシャルメディアも不安を垂れ流すことで、その周囲もまた不安に陥る。不安なのは確かだが、それ以上の希望も積極的に発言していかなくてはなるまい。

 近年、不安が遠因となったと考えられる凶悪犯罪が散見されるようになっている。罪は憎むべきだが、それを醸成している世情にも原因を考えるべきだ。長い平和の期間に私たちの耐性は落ちている。もっと大変な環境で生きている人々はいる。

笑うことも必要だ

 やせ我慢も大切だろう。そしてそれよりも明るい方面を開拓するものの考え方も身につけていかなくてはならない。苦しい時こそ笑顔になれとは先人の教えだ。そういえば人を笑わす技術というものを教える機会はほとんどない。教わるものでもないかもしれないが、何もなければ生まれないのも確かだ。もっと笑いに注目してもいいのではないか。もっとも、誰かを笑わさなくては減点などというシステムができたら本当に笑えなくなるが。

善意の連鎖

 私の通勤で使う道には自主的にゴミ拾いをする方がいます。最近2人目の方に出会いました。

 道端に落ちているゴミをトングを使って拾い集めているご高齢の女性がいました。持参のビニール袋には結構な量のゴミが集められていました。さり気なく作業をするその方の様子にはちょっとした感動を覚えました。

数日前から別の男性がゴミ拾いをなさっている姿をお見かけするようになりました。もし善意の行動が広まったとしたのなら、すばらしいことです。ボランティア活動は現代の日本に必要です。これが善意の連鎖ならばこの世の中も捨てたもんじゃない。

 他人のことを誉めるだけではなく、自分には何ができるのかを考えることが大事です。いかにして社会に貢献できるのか。身近なところから考える必要がありそうです。

人に頼らず楽しめるもの

 最近読んだ本の中で楽しみは一人でできるものを持っていた方がよいというのがありました。一つの真理ではあります。

 誰かのために何かをするというのが人間の究極の喜びであるとの考えにも接したことがあります。集団で生きる人類にとって他人への奉仕はいわば生物の遺伝的な幸福感の一つと言えるのかもしれない。そう考えさせられる言説でした。しかし、自己の幸福感を他者との関係に求めすぎるとたいていはうまくいかない。自分の思い通りに他者が動いてくれることは稀ですし、そう願うこと自体が他者にとっては迷惑になるときもあります。すると自己の幸福追求が他者にとっての不幸の始まりになってしまう。

 だから自己の幸福を追求する際に他人の反応を求めなくてもいいものを持っているべきだということになります。他人がどうであろうと自分が幸せを感じ、楽しみとなるものがあるのがよいというわけです。他人に迷惑を掛けず、結果的に他人にも幸せを感じさせるものであればなおよい。芸術活動の多くはこの枠に収まることですし、一部のボランティア活動もそれに含まれるかもしれない。いちいち他者の反応を気にしなくてもよい趣味的な活動があるといいというのでしょう。

 私にとってそれは何だろう。幸せを感じるほどのなにかを見つけなくてはと考えています。実はもうあるのかもしれませんが、具体的に意識していることはないのです。

起動

 自分のすることが誰かのためになると感じたとき、私たちはなにかしらの幸福感を覚えるようです。逆にいえば自分のために何かをするという考え方は内的な動機づけの要因としては物足りないということなのでしょう。

 ならば人をやる気にさせるためにはこの点を踏まえなくてはならないということになります。あなたの努力は将来のあなた自身のために必要なことなのだという助言はもっともな響きを持ちながら、実はあまり有効性は少ない。あなたのしていることが誰かのためになるのだという示唆がやる気へと繋がる可能性が高いということになります。

 人のためになるという言葉自体はよく聞くものであり、耳に心地よい響きをもっています。しかし、具体的にどのような役に立っているのかが示されなくては心象を結ぶことができません。恐らくよき助言者はそれを実践しているのでしょう。

 実際は他人のためになる行いだと実感できることはそれほど多くはない。年齢が上がるほど自他の行動を相互の利害関係という文脈で捉えてしまいがちです。金銭に換算してしまうこともある。だからこそときに利他的な考えに気づかせてくれるきっかけがいるのでしょう。

 この歳になってもさしたる業績もなく、恐らく何も残せない己を恥じ入りますが、せめて他人にやる気を起こさせる存在にはなりたいと考えています。

マイウェイ

 その人にはその人のやり方がある。その方法を極めることで達成できるなにかがあるということを時々考えます。

 英語ではwayにやり方、手段という意味もあるようです。日本語の道にも人生の意味を絡ませることがあり、道は人それぞれ異なるなどとたとえる表現があります。それぞれ違うはずなのにあたかも決まった幹線道路があり、そこを歩くのが正しいのかのように考えてしまうのはなぜなのでしょうか。

 他人を思いやる気持ちを捨てない限り、色々なやり方があっていい。それが結果的に他の人にもなることさえある。そんなことを考え始めています。

人のため

 最近読んだ本によれば人が幸せを感じるのは自分の存在が誰かのためになっていると自認できることにあるといいます。人から認められるのではなく、自分でそう思えることが大切だというのです。

 自分のやることが誰かのためになるという実感がなかなか持ちにくくなっているのが現代社会です。自分のために何かをやるという考えは蔓延していて、誰かのためにする行動も、結局自分に還元される何かとして認識されて初めて意味を持つように考えられています。自己承認という欲望がその奥にあり、認めてもらうために何かをするということになります。

 競争社会にあって他人に先んじることを教育されてきた私たちにとって、無償の行動で人のために働くということは根本的な考え方の変革が必要になることです。災害被災地への救援活動のような場合ではそれが素直に実行されやすくなる。ただ、そのために自分の行動を他に誇り、何かに利用しようとした段階で変質が起こってしまいます。

 人のために行動し、人が喜ぶことを自らの喜びとするという体験を私たちはもっと積まなくてはならない。それがこの閉塞感漂う社会を変えていく原動力になるはずです。