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ドクダミ

ドクダミは追憶の花?

 ドクダミはいわゆる雑草の部類に入るもので多くの人が目にしているはずだ。どこにでも生えている白い4つの花びら(実は花ではないらしい)は印象的だ。私はこの花にいくつもの思い出がある。

 こどもの頃はこの花は嫌いだった。野遊びのときこの草の放つ独特の臭いが嫌だった。名前に毒がつくのも気味が悪い。これを摘んて乾燥し、煎じて飲むと薬になるといって叔母が飲んていた。一口しか私は飲めなかった。

 学生となり、訳あって俳句を作るようになると、この花が十薬というのだと知った。昔から民間薬として利用されており、多くの人を救って来たことも知識に入った。毒ではなく、毒を矯めるという植物だったのだ。これを知ってドクダミへの関心は高まった。

 学生時代に友人と旅したことがある。何故かその中に北陸の古刹があった。広い境内のあちらこちらにドクダミが群生しており、その奥に踏み込むのを拒んでいるかのようだった。他にもより美しい価値ある植林もあったはずなのに、白い十字ばかりが記憶に残る。

 就職して地方に住むことになり、戸建の家を借りて住み始めたとき、ドクダミは草刈りの対象となった。地下茎で繁殖し切断しても生き残る生命力の強さは難敵としての地位を確立するに十分だった。この強さが毒に勝つ源なのだと敵ながら認めていたのである。

 もう何年も前だか職場の先輩が事故死する不幸があった。慕われていた方だったらしく、葬儀には実に多くの方が参列した。その長い列の脇に十薬の列もあった。これも何故か印象に残っている。

 隣家でドクダミの変わり咲きが栽培されているのを知って驚いたこともある。十字の萼の部分が薔薇の花弁のように八重になっていた。園芸種としてあるらしい。この家の主が花好きであったようで他にもたくさんの植物が植えられていた。通行人の目を楽しませてくれていたのだが、数年前に代替わりしたのか家主が変わったのか、あらかた植物は抜き取られてしまった。ドクダミの変わり咲きもそれから消えてしまった。

 実家の庭もいまは手入れをする人がなく荒れ放題だ。たまに見に行ってもさすがに手に負えない。多くの雑草の中に当然ドクダミも覇権を争っている。この夏には手入れをしなくてはと思いながら何もせずにいまに至っている。

 ドクダミには他にも様々な思い出がある。どうもこの草花には過去の記憶にはりついてくる特性があるようだ。花言葉を調べたところ白い追憶だという。やはりなにかあるのかもしれない。

みかんの花

みかんの花が咲いている

 近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。

 花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。

 毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。

 ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。

石楠花

シャクナゲ鮮やか

 近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。

 躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。

 多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。

あざみ野のホタル

firefly

 この頃になると思い出すのはあざみ野駅のあるあたりにホタルを見に行ったことだ。あざみ野は横浜市の北部、丘陵地帯にある。今はかなり人口が多い住宅地だ。

 私が住んでいた頃にはあざみ野駅はなく、青ガエルの愛称があった田園都市線は止まらずに次の江田駅を目指していた。田圃が点在し、雑木林が取り囲んでいた。農家の脇の用水にヘイケボタルが飛んでいた。

 いまは絶対見ることはできない。この沿線は恐ろしく変わり続けている。私のような思い出を持っている人も少なくなりつつある。

花水木

 通勤の途中の街路樹である花水木が見頃になっている。歌謡曲で有名になった割にはこの名を知る人は多くはない。

 花水木の花にみえる白や桃色の部分は萼なのだという。蘂のように見えるのが実は花でそれだけ見ると地味だ。アメリカヤマボウシとも言われ、かつて日本がアメリカに桜を送った返礼として渡来した。今は各地に広がり、自治体の花木となっている事例も多い。日米の友好のしるしだったことになる。

 一青窈のヒット曲ハナミズキはよく考えてみると難解な歌詞で失恋の歌とも片思いか、何かに対する鎮魂なのかわからない。そのすべてなのかも知れない。一つの植物にまつわる話は複雑であるものだから。

新緑

緑はいろいろ

 4月も下旬となった。このところ気温差が激しく、今朝も少し肌寒い。ただコートを着けずに通勤できていることを思うとやはり季節は進んでいる。

 通勤電車の車窓から見える緑も輝きを増している。新緑を感じる季節だ。やがて万緑となり、緑陰を楽しむ時候が続く。都会に住んでいても生活の指標はわずかに残った緑にある。さらに躑躅の赤や、花水木の白が輝く。昔のようにウツギやオウチは見かけないが、それでも初夏を感じて心は踊る。

 木の絵を描こうとしていつも失敗してしまう。葉をまとまりで処理してしまおうとするからだ。樹木の緑は一枚ずつの葉の集まりだ。それを忘れると絵は描けない。

土筆

広い野原でなくても

 近くの駐車場脇に僅かな露面がある。1メートル四方にも満たない小さな面積なのだが、ここには毎年この時期に注目している。

 誰も顧みない空間だが、定期的に草刈りが行われているようで常に地面が見える。春になると雑草が芽生えるのだが、その中で印象的なのが土筆だ。他とは異なる色形は一目でそれとわかる。

 にもかかわらず、土筆を発見するのはいつもかなり伸びきった後であり、盛りを過ぎた感じだ。毎年これを繰り返している。同じ体験をするので、瞬時時間を遡ったかのような経験になる。

 よく見れば杉菜も繁殖を始めており、やはり強い生命力を持った植物であることが分かる。草刈りされてもまたこの時期には何事もなかったかのように土筆が並ぶ。

年度末

先生の正月

 教員にとって春休みというものはない。授業がない期間でもっとも忙しいのがこの期間である。

 同業者には説明不要だと思うが、この時期には要録という申し送りの記録を書く。といってもマイナス要素はほとんど書かないので、本人の未来のための記録といったものだ。ある程度定型文はあるがそれぞれの生徒のことを書くのは時間がかかる。

 同時に新年度の準備も平行する。最初に流れを作るのが大切なので気を使う。新しい試みを考えたり、教材を考えたりするのは楽しいが、のめり込んではならない。数時間で次の授業に移ることを考えて1週間後以降の準備も行う。

 同じ授業を担当する仲間との打ち合わせや、テストまでどうむすびつけるかの検討などすべてが同時進行だ。加えて担任ならばクラス開きの準備もある。部活も考えるなど盛りだくさんなのだ。

 年度末はその終わりもはじめも忙しい。

国立劇場近く

桜はかなり急なピッチで開花している。花見が禁じられて3度目の春だ。乱痴気騒ぎは軽蔑すべきだが、ないと寂しい。少しずつ元の生活を取り戻したい。そう願うばかりだ。

開花

咲き始めたらあっという間

 昨日は雨にみぞれが混じった。凍える寒さだったといえる。だが、今朝近隣のソメイヨシノが開花していることに気づいた。すでに二分咲きといったところか。まったく感覚的なものだから正確には分からない。

 開き出すとすぐ満開まで一直線になるのがこの花の特徴だ。今年も今月中に満開を迎えてしまうのだろう。せめて入学式の日まではもってほしいと願うばかりだ。

 今年も紀友則の思いを共有することになる。