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デクレッシェンドしてゆく意味

 自分が人生の後期を迎えていろいろと困ったことが出来しているが、最近必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと考えるようになった。若い読者には理解が難しいと思うが、身体機能が少しずつ、継続的に減退するのを実感するのはなかなか辛いものがある。思ったことが思ったようにできないのは、焦りを超えた恐怖が伴う。

 ただ、そういうことを感じ取る機能もまた劣化している。深刻な失態を犯しても、その深刻さを認識する度合い自体が低下している。物差しが緩くなることで、実際の機能低下を甘く見積もっているというしかない。

 でもこれは生きるうえでは大切なのかもしれない。最盛期の基準で戦っていたら、今の連敗は許しがたいだろう。負けを許せる能力だと考えれば今の体たらくを受容するしかない。

 デクレッシェンドしていく自分の能力を優しく包むのが老化というものなのかもしれない。まだ諦めるつもりはないが私はいまの状況に合った生き方をするしかないと考えるようになっている。

まるまり

 認知症という言葉はかなり強烈だが、人は多かれ少なかれ脳の衰退に向かっている。私は短期記憶の低下を自覚しているのでちょっとしたことでもメモするようになった。これでしばらくは凌げるが、そのうちメモしたのかどうかもわからなくなるだろう。

 脳の皺が知能に関係するというのは本当なのか私には分からない。もしそうならば比喩的な意味において、その皺がなくなっていくのが加齢ということなのかもしれない。皮膚とは反対である。

 四捨五入することを丸めるという人がいる。脳が退化すると無意識的のうちに世界を丸めだすのかも知れない。大雑把に捉えることは知的なレベルで行えば高次元の行為だが、この方面は寂しさ伴う。ただ、詳細にとらわれないことは大切なのかも知れない。世界のまるまりを楽しむような余裕が必要なのだろう。

背筋を伸ばして

 猫背にならないようにというのは若い世代にとっては美容の問題だろう。私の年齢になるとより切実な問題となる。説明は難しいが年寄りには見られたくないという見えの要素が大きい。

 猫背になる原因の一つにうつむきがちに歩く癖がある。これは文化的要因があるのかもしれない。猫背を防ぐためには正面遠くに視線を保つ必要がある。そのためには歩き方の見直しが必要だ。重心を靴の真中に置く意識がいる。実際はそれでは歩けないだろうが、視線を前方遠くに置くことさえ意識していればよい。座ったときも椅子に深く腰掛け顎を引くという心掛けがいる。

 スマートフォンの使いすぎも影響がある。前かがみになりやすい。人類の進化を表すシルエットに、猿人から直立歩行する姿がよく描かれるが、続きとしてスマホを持つ前かがみの姿を描く戯画には説得力がある。

 直立を維持するには重い頭部を支える筋力も必要だ。首や背筋などは衰えやすいから、日頃から鍛えておく必要がある。いまできることはこれが最優先事項だろう。動画サイトにはいくらでもこの回答がある。

 おしゃれをするつもりはないが老人扱いは嫌だ。その意味では大いに足掻きたい。