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スマホの写真

 スマホで写真を撮ると最近はアプリがいろいろな提案をしてくる。露光を変えるとか背景とのコントラストをつけるとか、あるいは一部を動画のように動かしたりとかいろいろある。また時系列順に並べて見せたりとか、同じような構図の写真を並べてコラージュしたりもする。

 映像をパターンとして認識して分類したり合成したりするのは、人工知能の得意とする分野のようだ。便利であり、ときには楽しく使っている。

 ただ、写真を見る人の気持ちまでは推測できないらしく、過去の自分と今の自分を並べた写真を見て何を思うのかは分からないようだ。10年余りでここまで変わり果てるのか、そういう思いはコンピュータには理解してもらえないのかもしれない。

偶然の写真

 スマートフォンの写真機能で誰もが簡単に写真を撮れるようになって、写真を撮る機会も取られる撮られる機会も増えた。かつては写真を一枚とるのも緊張感が伴い、うまくいかなくても撮り直しはできなかった。デジタルカメラの普及でそうしたプレッシャーはなくなった。

Photo by Luis Quintero on Pexels.com

 さて、被写体となる機会も増えたのだが、その多くは同意なきものである。撮影者に悪意がある場合は別だが、ほとんどの場合風景の一部として映り込むことになる。例えば観光地の風景を撮る場合に、その場にいる別の観光客が自然にフレームの中に入っている。撮る方はその人たちに対する思いはないから、撮るときも撮ったあとも彼らに対しての関心はほとんどない。よほど奇抜な格好をしている人でない限り、意識されすらしない。そしてそれはデジタルとしてあるいはプリントされて保存され、何度か見返されることがあるかもしれないが、大抵はそのままお蔵入りする。

 ここで少し妄想してみる。偶然映り込んだ人々のそれぞれの人生が分かったらもしかしたら驚くのかもしれない。なぜその地に来たのかという過去への遡及、そしてその後の人生について。神のような視点に立つならば、その偶然の写真の中に実は様々なドラマが集まっていることが分かるはずだ。この後、結婚して家族になるかもしれない人が映り込んでいるといったロマンティックな想像は楽しい。あるいは、この後社会的経済的な大成功を収めて大きな影響力をもつ人物が含まれているとか、宿命のライバル同士が写っているとか、凶悪犯罪を犯すことになる人物がいるとか。いずれも単なる想像にすぎないが、写真という一つの枠で世界を切り取り、固定することで世界はまた違ったものに映るのかもしれない。

 そしてそれは他人だけではない、他人にとって他人である自分もまた、誰かの写真に切り取られて保存されているのかもしれない。それは誰にも分らないことなのだ。

山藤

八王子市 片倉城址の山藤

 ふらりと近隣の市の城趾に来てみた。早朝ゆえ人影は少なく、ひっそりとした山城を訪ねた。急な階段を登って本丸跡と呼ばれる空間にたどり着くと山藤の見事な株があった。鮮やかなしかも派手すぎない色彩は少々敏感になっている心に染みた。

国王の肖像

 上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。

 英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。

 写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。

 エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。

クリスマスツリー

グランベリーパークのクリスマスツリー
グランベリーパークのクリスマスツリー

 数日前に取った写真です。ツリーの上には満月が見えています。ガラケーのカメラではこの程度しか撮れませんでした。