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人のせいではなく

 憂国の徒にはいろいろなタイプがあるが、なかでも共感を得やすいのは権力側を批判する者たちだ。それは間違ってはいないのだが、中には自分たちは被害者であり、現状に責任はないと訴える向きもある。一方的に現況を押しつけられているのだという主張だ。

 こういう被害者意識は理解されやすく、そうだ私もだといった形で仲間を作りやすい。世論を操作する人の中にはこれを巧みに利用して、その先にある利己の路線に大衆を巻き込んでいく。最近のポピュリズム政治家の言動をみればこれは明らかだ。

 ただ、気をつけなくてはならないのは本当に人のせいだけなのだろうか。自分たちに何の責任もないのだろうか。ほとんどの選挙の投票率は低い。数字上では多数が投票すれば結果が変わるかもしれないという現実はほとんどの選挙で続いている。国内企業を守るべきだと言いながら、安い外国製品ばかりを買う。外国人の労働者が多すぎると言いながら、彼らの就労先に進んで就こうという日本人は少ない。そういう現実には目をつぶり、あたかも自分たちは犠牲者だと言うことには説得力がない。

 大切なのは批判精神を忘れないことであるが、その対象から自己を除外しないことなのであろう。自分もまた社会の一員であり、ということは現況をもたらしている一因であるということなのである。単に現状を嘆くだけとか、第三者のようなポーズをとって冷笑するといったことがよく見られるだけに、人のせいにしないという考えは再考すべきだ。

下り坂に咲く花

 減退した中で咲かせる花はあるのだろうか。最近はそればかり思う。自分の心身の衰えを痛感するゆえに、それでも何ができるのかを模索したくなる。

 年老いた親の姿を見ると、己の未来が如実に予測できる。どんなに気丈であっても、脳に障害が発生すれば遺憾ともしがたい。私のように不摂生な毎日を送っていればその落ち込みは急激に表れるはずだ。

 だから、せめてどうしようもならないうちに、人様の役に立つことをしておきたい。最早、最後の目標はこれから自分が他者から受ける恩恵を越える貢献を残したいということしかない。残念ながら、財産を寄付するといった直接的な貢献はできない。わずかでもお前がいて助かったというに何かをしておきたい。

 恐らくこうした願いは先輩たちが共通して考えてこられたことなのだろう。でも、これを言葉にすることは難しく、評価も困難だ。多くの方が思い半ばで他人に見いだされないままになられている。

 自分の業績を残したいわけではない。ただ、相当意識していないと加齢とエントロピーの崩壊則に飲み込まれてしまうことは忘れてはならない。

郷土愛

 ある土地に生まれ、その地にどれくらい執着するのかは個人差がある。生まれただけのことであると割り切れるむきは特に気にしない。そもそもこの世に生を受けるか否かは本人の意志を越えており、ましてその土地がどこかなど考慮外である。

 それでも実感として故郷に対する思いの強さは揺るぎない。なぜ生誕地に拘るのか、はっきりとはわからない。郷土愛という言葉で総括されてもなぜそれがあるのか説明できる人は少ない。自分が生まれたというだけでその地が他より優れていると考えることは信仰のようなものだろう。

 そうは言っても、やはり故郷を愛する気持ちは抑え難い。理屈よりは感性の問題である。故郷は遠き彼方にて思うものという言葉はそうならざる状況に追い込まれた人の持つ感慨である。古人の残した詩句にそれを感じることができる。

 ところで、故郷の範囲をどう考えるのか。それが大問題であろう。かつては村を、そして国、今で言う都道府県をその単位と考えた。いわゆるウチと呼べる範囲はそのようなものだったはずだ。ウチの街では、ウチの県ではと言える。国際社会においてはウチの国と言えるかというと、この感覚はやや無理がある。我が国という類似表現があるが、ウチほどの密着性はない。

 さらにウチのアジアとかウチの地球というのはますます無理だ。SFの中の表現ならばいざ知らず、非現実的な表現である。こうしたことから考えると郷土愛というときの郷土の範囲はある程度限られている。

 郷土を愛することそれ自体は素晴らしいことだが、この愛には他者の郷土をも尊重する態度が含まれていなくてはなるまい。それがなければ、自己中心的な感情となってしまう。結果的に巡り巡って自分の里をも傷つける。他者にとって自分もまた他者なのだから。

 郷土愛を育てる大切さを訴えるときに、まず他者の郷土も尊重することと、その先に大切にする場所の範囲を広げることが肝要だ。

 

差別の醸成

 我が国が国際社会の立場や経済的地位に関して停滞し、衰退の途をたどりつつあることは多くの人たちに実感されている。働いても増えない報酬、着実に進行する物価上昇の流れをどうすることもできない。その中で密かに差別が生まれ、多方面に拡散しつつある。

 人種差別のような露骨なものではなく、ほぼ等質の者同士がある基準で優劣を設定する。俯瞰的に見ればほぼ等しいのに、あたかも天と地の隔たりがあるかのような演出がおこなわれる。自分および自分の属する集団こそが正義であり、あとは邪道だと言わんばかりだ。

 出身大学や所属する会社名にランクつけて階層化することは昔からあるが今はそれを露骨に言って躊躇いがない。どのような哲学を持ち、いかなる意識を持っているかより、所属する集団によって優劣をつけようとする。潜在的でたちの悪い差別意識が隠れている。

 努力してもなかなか報われない社会を生きていると、向上心を持つ価値が危ういものとなる。既得権に縋り、自分の持つ物差し以外で考えることが難しくなるようだ。有名大学の出身であるか否かは一つの基準に過ぎず、今何を目指しているのかの方がはるかに大切なはずなのに。

 様々な方面で芽生える差別の意識を危惧しているのは私だけではないはずだ。ネットで他人を冷笑して自己満足している人たちが増えて行くのが不気味であり、衰退する集団の凶兆のように思えてならない。

古きよきではなく

 懐古するとき、私たちは無意識のうちにいろいろな誇張をしている。実態以上に物事を美化し、場合によっては実態以上の理想世界を創造してしまう。ベル・エポック幻想は誰にでもあるのだろう。

 私はちょっと変わり者で過去に理想を求めない。古典文学研究で少しだけ明らかになる世界は優雅だが、その分極めて不自由な社会的くびきに取り込まれている。恐らくタイムスリップしてもすぐに逃げ出したくなるはずだ。

 過去を知ることは今を考えることなる。現実は厳しくいつも難題を突きつけて来るが、先人たちの苦難に比べれば耐えられるものかもしれないと思うことができる。

少し前のことを考えてみると

 少し前の世代のことを考えてみるといまの異常さに気づくのだ。何でも検索でき、世界に向けて発言しようと思えばできる。こんな事態は誰も予想しなかった。

 私の学生時代は壁のような蔵書の中から一語を見つけるのに数ヶ月を要し、自らの意見を公にするのに数多の関門があった。それが当たり前の時代に生きていた世代にとっては現代はなんとも野放図である。

 生き方にしても多様な価値観で生きられたはずなのに、今や細かな部分まで序列化され、あたかも共通の物差しがあるかのようである。コンピューターのスペックのように人生を計り、順位付けられることに疑問を感じない。これは明らかにおかしなことである。

 間違えてはいけないのはいまもまた変化の途中ということだろう。現代の基準もいつかは変わる。いま正しいと言われているのものが未来まで通用するという保証はない。時々の流れに叶ったものが評価されているのに過ぎない。

 少し前のことを考えることは少しあとのことを考えることでもある。些細な差を気にしすぎてはならない。

もしいま若者だったら

 街を歩いているとごく稀に自分の若い頃によく似た人に出会うことがある。もっともそれは私の一方的な思い込みであり、恐らくまったく違うはずだ。ただそこで敢えて妄想を止めずにいるといろいろな想像の枝が伸びてくる。

 もしいま青春時代を送っているとしたら、随分違う人生観に達しているはずだ。昭和の雰囲気とはまるで違う。物事に対する価値観もまったく変わっている。

 私の育った時代は立身出世のためには勉強するしかないと誰もが信じていた。一流大学、一流企業に進むことが成功者の頂点にあり、序列があって、その番外になれば脱落者のように考えた。この法則は今でもある程度は成り立つが必ずしも高学歴が人生の成功と結びつかなくなってしまっている。ある特殊な技能があればブレイクスルーができることが分かってきたのだ。

 ただしそれには才能と努力とが必要だ。単に技能が高いだけではなく、それを続ける胆力のようなものもいる。いまの若者には高い能力がある人は多いが、くじけず目標に向かう精神力というものに欠点があるように思う。そう思うのは昭和の時代を生きてきたからであり、もし今の若者として生きているならば自分を犠牲にして生きることに価値観を見いだせないかもしれない。

 何でもすぐに検索でき、ネット通販で取り寄せられる時代にどっぷりと浸かっていれば、探求する情熱は湧きにくい。できるだけ効率的に、つまり楽をして目的のものを手に入れることばかりを考える。そういうことに何の躊躇もなく毎日を過ごせるのがいまの世代だ。私はまったく馴染めない。

 いま若者だったらどんな人生観を持っているのだろう。こういう妄想は楽しいが、すぐに虚しいものとなる。人生は一度きりであらゆる仮想は無意味なものだから。

足るを知る者は富む

 景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。

 個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。

 子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。

 へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

 

足るを知る者は富む

 貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。

相対的

 誰かと比べることに慣れすぎている私は、勝手に基準を設けて自分の幸福度を決めてしまうことがある。こういう相対的価値観はおそらく人間の本性に属するもので私だけの問題ではないだろう。

 ただ、こうした窮屈な評価基準から抜け出す方法はないのだろうか。人を羨むのでも自分が奢るでもなく、必要なものを必要なだけ所有し、消費する。そういう生き方に魅力を感じている。

 できれば余裕がある方がいい。その余剰は周囲に分け与えるのが理想だ。いまはいつ破産するのか分からない恐怖を感じながら、毎日を徒労感とともに送っている。それも分不相応の何かをしようとしているからではないか。

 相対的幸福感から抜け出すための試みを少しずつ始めてみよう。これは禁欲ではない。やりたいと思うことはやるが、やらなくてもいいことは無理にやらないということなのだ。