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AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

人工知能に勝つ

 現時点でもAIの能力はかなり高い。自然な言語で文章を生成する能力を持つ。最近注目されているチャット式のシステムを体験すると、その感がかなり揺るぎないものになる。海外ではこの技術を使って論文を書いたり、絵画のデザインをする人も増え、大学で使用禁止を通達した事例もあるという。

 AIに勝つためにはどうしたらいいのだろう。あっさりシンギュラリティを認めていいものだろうか。

 私のようなものにとってはこの事実は許しがたい。人間には無限の能力があり、機械が模倣しても追いつけない何かがあると考えてしまう。これはほとんど夢に近いものなのかも知れない。

 でも、学校で教えていることはまるで機械と同じだ。もっともこの言い方は間違っている、これまでの教え方をコピーしたのがAIなのだから。ならば、奴らに勝つためにはもっと他の方法を取るべきではないか。

 人間の思考の根本には言葉の意味を考えるということがある。たとえば愛なら愛という言葉の非常に重層的な意味を瞬時に理解し、それらを組み合わせる。また、常に同じ組み合わせではなく、時々間違えていつもと違う取り合わせにする。その中にはこれまでにはない新しい発見が含まれることがある。こんな生物の進化のような非論理的偶然性こそ、人間の思考の大きな特徴ではないか。

 この方面では機械学習は役に立たない。最適解を短時間で出すことを求められているのだから。人間は人間のペースを保たなくてはなるまい。それは間違いを許容し、新しい組み合わせを認める審美眼である。学校ではこれを教えなくてはならない。

 今の敎育がAIの手下になることばかりを推進していることに深い危惧を覚えるのだ。もっと間違えよう。新しいものに敬意を持とう。実はそう教えたい。