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SNS年齢制限は妥当だが

 オーストラリアの上下両院で16歳未満のソーシャルメディアの使用を制限する法案が可決された。国民からの支持も強いらしい。ソーシャルメディアに流れる情報は玉石混交であり、個人や団体への根拠薄弱な誹謗中傷も日常的に出ている。加えてAIを使ったフェイク画像、動画も多く、いわゆるメディアリテラシーがなければ虚偽の情報に翻弄されてしまう。

 オーストラリアはインターネットが非常に普及しており、若年層がソーシャルメディアの閲覧をきっかけに犯行に及んだり、自殺したりするケースが多いのだという。情報によって追い詰められた人の行動が悲惨な結末に至るのはどの国も同じようだ。

 若年層が被害に合いやすい現状では制限をかけるのも仕方がない。無法地帯に踏み込む準備ができるまでの猶予だ。ただ、これは年齢だけが解決するものではない。いくつになっても条件はあまり変わらない。SNSで繰り広げられるはかない嘘話に精神を吸い取られている人は年齢に関わらず多い。

 情報を規制されるのは大いに問題があるが、ときには自らメディアとの距離をとるのもいいのかもしれない。

芝居の感想

 ある演劇を観た高校生が感想を語り合っているのを耳にした。登場人物の振る舞いや、台詞について情熱的に語っていた。中には私とは見方が違うと思うこともあり、基本的な筋の読み間違いではないかと思う発言もあったが、概ねは賛同し得る意見であった。

 立ち聞きしたのは申し訳なかったが、私が驚いたのは細部にわたって様々な解釈がなされていたことだ。私と言えば、芝居の構成や他の演劇との類似性、伏線の答え合わせなどなんというか本質的てはないことばかり考えていたのである。理屈で芝居を観るのではないと思うがそうしてしまうのだ。

 純粋に演劇の世界を楽しむにはある程度の没入が必要だが、私はどこかで自分を押し止めてしまっている。それが本当の意味で楽しめていない原因かもしれない。

読解力向上の実感無し

 国際経済協力機構の実施する国際学習到達度調査で、日本の生徒の読解力が向上したとのニュースがあつた。これだけ読むと祝福すべきだろうが、現場の教員からすると大いなる疑問をもつ。ここでいう読解力とは何を意味するのだろう。

 短い時間の中で与えられた設問に解答する力を読解力というのなら、ある程度の教育の成果はあるのかもしれない。特にデジタルデバイスを活用して検索した内容を自分なりに纏める力は少し前の世代と比べて格段に向上している。

 でも、情報処理以上の読解となると覚束ない。検索可能なものを越え、思考と経験を積み合わせる行いは苦手のようだ。いまの世代には直接的な体験が欠けている。情報としては接していても実物を見たことがないのである。例えば昆虫なり、岩石なり手にしたことがあれば、そこから得られる刺激がある。それがないから、モンシロチョウの羽化も木星の衛星の運行も同じレベルで遠い存在なのだ。

 だから子どもの読解力が向上したと言われると疑問符しか思い浮かばない。むしろ、低下しているというのが私の実感である。

 小手先の読解力を上げるより、思考とは何かを考えたほうがいい。イノベーションはそういう体験の積み重ねなしには生まれない気がする。

ソーシャルメディアという形容矛盾

 Twitterの方針転換に関しては何度か問題になってきた。トランプ前大統領のツイートを排除するかしないか、リツートの回数を制限するとか、そういうことが最近話題になっている。

 恐らく、TwitterにしてもFacebookにしてもそれを提供する企業の事情でこれまでも強制的に方針が変更されてきた。これからもそういうことが繰り返されるはずだ。ソーシャルメディアは日本ではソーシャル・ネットワーク・システムなどと言われてるが、いずれにしても実はソーシャルではなく一企業の商品に過ぎない。ただその上に、政治家も企業も乗っかっていくのであたかも公器のようなふりをしているだけだ。

 これに頼りすぎるのは危険だし、そもそも公のものではないことを知るべきなのだ。そうでないと一部の企業経営者の思惑に踊らさることになる。ただで使わせてくれる利点だけを活用して、活用されないようにすることが市民の心得ということになるだろう。

だまされやすい環境

 感染予防のために人々が分離され、状況をメディアを通してしか把握できなくなると、ものごとの状況の風合いを体感できなくなります。本当はどうなのかを実感できなければ、すぐに見破られるはずの嘘にも騙されることになるかもしれません。

 昨今のトイレットペーパー欠乏デマはソーシャルメディア発の偽情報が瞬く間に広まったものだと言われています。その情報自体も検証しなくてはならないのですが、誰が言ったかよく分からないことに多くの人が騙されてしまう状況は、今日の状況で起こりがちであることがよく分かりました。

 コロナウイルスの終息がいつなのかわからず、人々が語り合う機会も奪われつつある今、だまされやすい環境が整っているといえます。混乱を招かないための工夫をしていかなくてはならないと考えるのです。

騙されないための読解力

 日本の子どもたちの読解力が低下しているとは最近よく言われるニュースです。OECDが行う生徒の学習到達度調査であるProgramme for International Student AssessmentいわゆるPISAの結果に日本のメディアはかなり敏感に反応します。そして教育界もこの数値をかなり気にしているのは事実です。

 昨年参加した教員向けのセミナーのほとんどでこのPISAの話題がでました。これに対応する能力をPISA型学力などということもありました。今話題になっているのは2018年の調査で日本人生徒の読解力が参加国・地域の15番目となり、著しい低下と捉えられました。萩生田文科相もこの点について「判断の根拠や 理由を明確にしながら自分の考えを述べることなどについて、引き続き、課題が 見られることも分かりました」とコメントしています。そしてこの調査がコンピュータで行われていることなどから、コンピュータに対するリテラシーも関与していると判断されたようで、学校での一人一台コンピュータの実現を目標に掲げています。

 ところでこの「読解力」を測るテストはどのようなものかといえば、ある大学教授のブログなるものやアマゾンや楽天などで見られるブックレビューのような記事をを読んでそこに書かれている内容を読み取るものでした。詳細は文科省のページから読むことが可能です。

 ここでいう読解力は情報を正確に読み取るという能力であり、いわゆる行間を読むとか空気を読むというものではありません。日本人が一般的に考えている読解力とは少々次元が異なるものです。非常に基礎的で根本的な能力といえます。逆に言えばこれほどの読解力が低下していることに危惧を感じるのです。

 おそらくここでいう読解力は意図的に悪意のある情報源からうそを見抜いたり、勝手に誤解して誤った行動を起こしたりしないための能力のことをいうものと考えられます。その意味ではメディアリテラシーのレベルの話であるといえます。その点を踏まえておかなくてはなりません。

 ソーシャルメディアの普及で私たちは文字に接する機会が増えましたが、断片的で不十分な情報のやりとり、もしくは一方的なつぶやきに終始することが問題なのでしょう。相手の言いたいことを時には批判的にしっかり読み取り理解する能力は意識しないとつけられないのかもしれません。騙されないための読解力を馬鹿にしてはいけないのかもしれません。

 私のような国語教師にとってはこの段階の読みを読解力と呼んでほしくはないという気持ちがどこかにあります。ただ現実と向き合うことは大切なのでしょう。情報にあふれながらその処理の仕方をいまの子どもたちは実はきちんと教えられていないのかもしれません。