幼馴染

 小学生の頃、転校ばかりしていた私はいわゆる幼馴染なる存在を作れなかった。人格形成ができる前から付き合っていた友人というものがない。中学生からは転校はなかったのでその当時からの友人は少しだけいる。都会の真ん中の学校であったのに、いやそうであったからこそ、当時と同じ場所に住み続けている人はほんの僅かでいまは行方知れずの人ばかりだ。かくいう私も中学の校区に行く機会はほとんどない。

 ごくまれにこの頃のことをふと思い出すことがある。他愛ないことが大半で、やけに詳細な記憶があるものとほとんど思い出せないことが入り混じっている。現今の中学生に比べるとはるかに純粋で幼かったと思う。携帯電話もソーシャルメディアもなかった時代は、対面での交流が唯一の手段であり、通学の途中の道端で話し込んだものだ。悩みや弱音の交換がほとんどでその内容は思い出せない。それほど遅くならずに解散していたのだから、大したことではなかったのだ。

 私にとっての幼馴染は中学時代のときの友人なのだろうが、いま交際を続けている者はほとんどいない。原因は私が行動を起こさないからだ。数々の同窓会の誘いをことごとく断ってきてしまったのである。懐古の情とともに、そこに立ち入ってしまったらいまの虚勢が崩れてしまうのではないかという形の知れない恐怖が出来するのである。

 これはある意味、内省を欠いて日々をやり過ごすという行為であり、致命的な自己崩壊を避けようとする虚しい抵抗なのである。ただ、これを続けることにより、自分の存在が益々分からなくなり、そこはかとない不安が充満してくる。張りぼての自己を日々作りながら、それが突如崩壊するときが来るのではないかと恐れているのである。

 自分の過去を知る人に会うことはもしかしたら大切なのかもしれない。何よりも自分自身が見失った自分の姿を思い出させてくれるのは彼らかもしれないのだ。この歳になっても過去の友人たちに会うことに躊躇しているのは我ながら滑稽だ。ときには思い切って過去の世界に浸ってみるのもいいかもしれない。

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