漢文で教える「推敲」の故事を覚えているだろうか。科挙のために上京した賈島なる人物が詩作の過程で「推」か「敲」のどちらの文字を使うのがよいか悩む中で韓愈の行列を遮ってしまう無礼を働いたが、韓愈は詳細を訪ねて詩について論じ合ったというあの話である。大体、この授業はここで終わるのだが、本当に考えなくてはならないのは「推敲」することの面白さ、楽しさ、そして重要さだろう。
推敲することは自分の文章を見つめ直し、より高いレベルのものに仕立て上げる試みである。それによってそれまで以上の効果が現れたり、自分が期待した以上の何かが表現できたりする。最初の時点では思いもつかなかったことが実現できたりするのだからとても意味がある行いと言えるのである。
現在は完成の速度を求められ、さらに生成AIなどに任せてしまうと推敲することの意味を感じにくい。それ以前に推敲という行為そのものをする機会がなくなってしまっているように思う。推敲の意義は意識的に教えなくてはならない段階にとっくに入っている。
作家の草稿を見ると著しい推敲の跡がみられる。中には書き込みが多すぎて読むこと自体が大変になっているものもある。現在はコンピュータで入力するから、推敲の形跡が可視化されることは少ない。また最終版が最善版であるという発展思考型の考え方では、制作途中の行程には関心はいかないのかもしれない。つまり「推敲」という行為の意味が分かりにくくなっている。
私自身も文章を原稿用紙に向かって書く機会がどんどん減っている。でも実はこれはとても残念なことなのかもしれない。このブログはデジタル入力だが、本当に言いたいこと(このブログがそうではないというのではないが)手書きで残した方がいいと思っている。
