年の初めには過去を振り返るよりも将来を考えることが多い。ただ、私のような年齢になると未来を考える際に過去の経験を参照しすぎる傾向にある。前例にこだわりすぎてはならないと自戒するものの、やはり過去の例からものを考えなくては何も始まらない気がする。教員という仕事が将来なくなるという人がいる。AIの教育ヘの応用ができれば一斉教育をする教員という人間よりはるかに効率よく教育ができるというのである。これは半分当たっていて、半分間違っている。だから教員の未来予測については意見が分かれるのだろう。
確かに一斉教育の弱点は個々人の能力や特性に配慮が届かないということにある。教え方の緩急も人によって調節するべきだし、少し厳しくいった方がうまくいく人と、自由にやらせた方が成果が伸びる人がいる。これは人次第なのだが、それにいちいち対応できない。いまでも優秀な教師はこのことを知っていて生徒に適切な助言をしている人もいる。でも、それがすべてうまくいっているのかといえばそうでもない。まぎれもなく生徒と教員との相性という要素もあるからだ。
ならば柔軟にカリキュラムを個人向けに変えていくAI教師の方がうまくいくかといえばそうとも限らないから厄介だ。機械任せで学習するよりは結局、自分の力でやる方が身になる。また分からないことは教員に質問して解決したほうがはるかに理解が早いのだ。コンピューターで学習してうまくいく生徒もいるので一概には言えないが、私の経験上では大抵はうまくいっていない。私たちは大人も含めて情報機器の扱い方を習得できておらず、自分の能力を上げるための補助として使いこなせていないのである。
この先の教員の役割はもちろん個々の生徒の精神的な補助をしたり、疑問点を先回りして考え、質問に備えるといったことがある。そして何よりも生徒の学習意欲を高めるあらゆる工夫をする必要がある。また学校という集団社会の中で個々人の役割を考えさせ、決して他人と同列になることが幸せの目的ではないということを知らせる必要がある。ある大学に入学せよというのは分かりやすい目標だが、それは多くある目標の一つにしか過ぎない。それよりも自分が何を学びたいのか、それが今後の人生にどのような意味を持つのかを個別に説明する存在であらねばなるまい。
学習するのは個々人だが、学びに向かわせるのにはコーチがいる。それが教員の仕事なのだろう。そういう風に変わっていけば教員という仕事はなくならないだろうし、むしろこれから人材不足で積極的に求められるようになる。これから教員になる人には可能性のある仕事であること言うことを伝えたい。ただ皆さんの恩師と同じことをしていては先細りになるかもしれない。学ぶことが好きでそれを他人に伝えることができるか否かが肝要なのだ。