説明過剰

 歌人のエッセイを読んでいてなるほどと思ったことがある。現在の文芸は大概が説明過剰であり、それゆえに詩歌の入り込める世界が小さくなっているとのことである。文学的な表現として説明し過ぎないという基本的な約束がある。文学で求められるのは分かりやすさではなく、表現の中にどれほどの情趣を盛り込めるのかということである。目指しているものが違うのに、最近の文学はとにかく分かりやすいというのだ。うべなるかな。

 分かりやすさを求めるのはビジネスの場面では当たり前である。多義性を極力排し、一読すればすべてが分かるというのが理想とされる。そこに含蓄は要らない。その発想が文芸にもそのまま援用されているのだろう。きわめて分かりやすいが、その分薄っぺらい出来具合になってしまう。

 この傾向の背景にあるのは、やはり読み手の読解力が低下しているということにあるだろう。分からなければ読まないという姿勢は、読解への挑戦心を削ぎ、いつしか本当に読めなくなってしまう。面倒なことはしない。非効率的だからというビジネス文書の読み方と同じになってしまうのだ。

 書き手の方もそういう読者を慮ってとにかく分かりやすく書く、技巧は最低限にして話の展開も単純にする。複雑な時は文中に注釈を入れてしまう。読者に嫌われるくらいならばその方がいいと考えてしまうのだ。こうした動向は日本語のレベルを下げることに繋がることを認識しなくてはならない。

 私は日本の事情しか分からないので、この先は推論に過ぎないか、恐らくどこの国もおおかれすくなかれ同様の背景があるのだろう。説明がなくても読み取れる教育をすることが求められている。

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