かつて古典研究の真似事をしていた身にとって、古典は学問の対象であり、しかるべき手続きを読まなければ触れてはならないものという考えがあった。しかし、いまはその考えは間違っていると思う。
古典作品をどう読むかは読者の自由だ。ただ、それが書かれた時代の言葉や価値観を知らずに読むと、作品の伝えたいメッセージを見誤る可能性がある。だから、古典の言葉を学び、文法を学習し、背景の歴史を習得する。それはしないよりした方がいい。
でも、それをしなければ古典は読めないわけではない。思い切り現代風に解釈し、恐らく作者の意図とはまるで異なる読みをしたとしても、本当の古典作品は耐えられるはずだ。
もちろん、従来の文学研究は大切であり、これからもさらに継続し、深めて行く必要がある。近年、この方面が疎かになりつつあるのではないかという危惧が、私にはある。
しかし、過去の作品を新しい視点で捉え直すことはそれと同じくらい必要だ。古典を埃の下に眠らせない。それがこの国の持つ潜在力に繋がる。古典には多様な読みがあってしかるべきだ。
こんにちは。
そういえば、心理学者で有名な、加藤 諦三(かとう たいぞう)さんが、
「現代で言う苦しみ、不安、葛藤などは古典であるギリシャ、ローマ時代にすべて出尽くしている。それらを参考にしたらいい」って言ってたのを、思い出しました。