いろいろなことがコンピューターで制御され、無駄を極力防ぐ技術が開発されている。その成果は人工知能の発達とともにより高度化され、効率化という大義名分を達成するために活用されている。それはそれで意味がある。人手不足で停滞気味の産業を支援するのには機械の補助が欲しい。農業などの高齢化が進む産業では、コンピューターのアシストで労働力不足が補えるし、若い世代の参入の可能性をもたらす。このようなことはほかにもいくらでもあるだろう。
機械に仕事が奪われるという恐怖は積年の懸念材料だが、これは避けられそうもない。私のような教員は機械化から最も遠い職業といわれていたが、最近の教育テクノロジーをみるに従来型の教員は比較的早い時期に機械化できるかもしれない。目的と手段がはっきりしていて、一定の効果を期待する産業においては機械化と親和性が高い。いうまでもないが、既存の産業の大半はこれである。
すると、決まりきったことを無駄なく遂行することに関しては機械に代替される時代は比較的早く来そうだ。残念ながらこの潮流は決定的であり、もう変わりそうもない。だから次を考える必要がある。ある程度の仕事は機械がこなす。かなりの水準でやり遂げるので、その意味では生活の水準は上がるのかもしれない。でも、いろいろなことがコモディティとなり、特別なものが見当たらなくなる。そこで重宝されるのは、効率化ではなくむしろ個性を生かした特殊性であろう。アートの領域が尊重されるようになると推測できる。
個人の創意が評価されるには、その創意を形にしたり音にしたりして何らかの表現をすることが必要である。そうした作品を作り出すには心の余裕がいる。数多くの駄作とともに、その中にかすかに生まれる傑作を待たなくではならないのだ。余裕のある生活を送るためにはどうすればいいのだろう。