国語の関守

 語彙の貧困化について同僚と話していく中で、やはり国語の教員が使う言葉を意識して、時流に流されないようにすることが大事だということになった。言葉は時代とともに変化するものではあるが、それを堰く存在も必要だ。

 「やばい」「めっちゃ」「オワタ」などの流行語は汎用性が大きいのが特徴である。他の表現を駆逐してしまう毒性もある。善くも悪しくも急激に心が動き、印象深いときにやばいと言い、それを強めるときはめっちゃをつける。どの程度どうなのかは「めっちゃやばい」からは分からない。

 教員仲間でもこのような表現は普通に行われており、曖昧な言葉を使っているという自覚もない。生徒諸君にとっては繊細な感情表現の方法を学ぶ機会が限られていることになる。だから、国語科の教員はせめてもの言語表現の伝統の保守的伝達者になるべきだと言うことになる。

 そもそも人間の心の動きは複雑で名状しがたい。嬉しさも悲しみも様々あって、実は厳密に言えば一回限りのものである。それを限られた言葉で切り分けるのは無理というものだ。だが、そう思っても言葉の力を諦めないことが人間の叡智と言うべきものだろう。

 切なく震えるような心の動きを何というか。言葉探しを忘れてはならない。流行語に逃げ込んでしまうことは容易だか、まずは自ら言葉を探し思いを言い当てていく面倒な試みをさせるべきなのだ。その役を国語科の教員はかって出るべきなのだろう。

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