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あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。
もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。
私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。
伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。
