登山の意味

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 そこに山があるから。イギリスの登山家ジョージ・マロリーのエベレスト登山に向けた情熱を述べた名言だ。彼が最終的にエベレスト山頂付近で亡くなっていることもこの名言に価値を与えることになってしまった。エベレストのような特別な人しかたどり着けない山ではなくても、人は山に登りたがる。それはなぜだろう。

 高いところへのあこがれは多くの人が共通して持つものだ。高所恐怖症の人は別にみえる。これは考えてみれば高所を特別に感じるからこその感覚であり、あこがれの表現方法が反対の絶対値に振れているのだともいえる。高い場所は日常を超越することであり、そこに快感がある。確かに山は多くの場合それを満たしてくれる。

 しかし、もう一つ大きな要素がある。山頂は限られた面積しかない。その地を占めるということに意味があるのだろう。特別な空間に身を置くことで、確かに自分が生きているという実感が持てる。山でなくてもいいが、人間にとって山頂は特別で限定された空間という意味では象徴的である。高いところならばどこでもいいかといえばそうでもない。山は少なくても人間の一生を単位に考えればほぼ不動の存在である。地質学的には山も動き、海底が山頂になることもあるというがそれは実感からは程遠い。

 エベレストは誰にとっても世界最高峰であり、富士山は日本最高峰だ。万人に共有できる特別な地は、実はそれほど多くはない。マリアナ海溝は世界最深と言われているが、超高性能の潜水艦でようやくたどり着けるかどうかだ。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地だが、それらの信者以外にとっては面倒な歴史を持った場所に過ぎない。万人が認める特別な場所はやはり山頂だろう。特別な場所を踏むことに登山の意味があるのかもしれない。

 古代のことを研究すると山は聖地でもある。山岳信仰はいろいろなところにあるし、多くの民族に共通する。特別な場所は信仰の場所になり、宗教の対象となる。信仰の具合によっては入山禁止になるか、もしくは山頂に立つことを神に求められるようになる。これも登山する要因の一つだろう。

 さきほど生きていることの確認のために山に登るという可能性を述べたが、生きていることを感じる方法はいろいろある。その一つが死との接点に立ち、彼岸に渡らないことである。死の危険を冒しながらも、生き続けることによって生命を実感することができる。いわゆる冒険である。これができるのも登山の意味なのかもしれない。本当の高山では実際に遭難死する人が後を絶たない。しかし、低山であっても日常とは異なる世界を歩くことは一種の冒険であり、生の実感を獲得できる機会になる。

 登山には憧れるし、遭難者のニュースに接すると悲しくもなると同時にどうしてわざわざ命の危険を冒したのかと思うことがある。今回考えたのはそのいくつかの可能性に過ぎない。そこにあるから登るというだけでは説明できない何かがあるのだろう。

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