
何度か書いたことがあるが長崎忌には個人的に思うところがある。
1945年8月9日、原子爆弾を積んだ爆撃機は八幡を目指していた。製鉄所のあるこの地域はかねてから潰しておきたい場所であるあったはずだ。ところが目標地点の天候が悪く、投下に適さないと判断した。あるいは八幡製鉄所の工員たちが煙の出るものを燃やして妨害したのだともいう。
結果的に第2目標であった長崎にB29は向かい、厚い雲間に見えた浦上の上空にプルトニウム爆弾が炸裂することになった。瞬時に多数の命が奪われ、長年に渡る後遺症を残す惨事になった。
その日、子どもであった父は八幡で暮らしており、第1目標地点に投下されていたとしたら間違いなく犠牲になっていたはずだ。当然私も存在し得ない。いま生きていることが偶然の結果であると痛感するのだ。
もちろん、あらゆる局面において人生は偶然の産物である。ただ、その運命を人間が変えてはなるまい。長崎でその日になくなった人の未来を奪う権利は誰にもなかったはずだ。
長崎には何度も訪れている。そのたびにもし北九州がこの運命を背負うことになっていたらと考える。犠牲者に心から哀悼の意を表したい。