写真

Why do you take pictures?
Thanks for Photo by Saeid Anvar on Pexels.com

 人はなぜ写真を撮るのか。そんな作文を中学生に課してみた。もっともZ世代にとっての写真の意味は私のそれとはずいぶん違う。私はシャッターを切るという言い方に違和感がないが、今この言い方はなされない。なされたとしても意味がかなり違う。写真を撮る意味はテクノロジーの進歩以上に変化しているかもしれない。

 父は写真を撮るのが下手だった。ピント合わせも遅ければ、なかなか構図が決まらず家族を待たせた。たいていの場合しびれを切らした家族の不満な表情を撮ってしまうことになる。しかし、これは父が悪いだけではなかった。かつての写真はピント合わせから自力で行った。フィルム代も安くはなく、24枚か36枚程度でフィルム交換をしなくてはならず、その交換も手巻きだった。だから、一枚ごとの撮影は慎重にならざるを得なかったのだ。それでも現像してみたら目を閉じていたということはいくらでもあった。

 今はデジタルカメラだから、何枚でも撮り直しができるし、その場で写り具合を確かめることも可能だ。カメラではなくスマートフォンで撮影する人の方が多い。カメラを持っていない家庭が多いのは昭和時代では考えられないことだった。写真を撮る緊張感はほとんどなくなった。自撮りというよく考えれば不可思議な行動をする人も一般的になった。

 では、なぜ写真を撮るのだろうか。一つには不断の時間の中に生きる私たちのささやかな抵抗だと考える。諸行無常の世界にあってすべては移り変わる。自分の身体でさえ絶えず変わり続けている。昨日の自分はすでに今の自分とは物質レベルで別物になっている。ならば写真もしくは動画でその時点での自分もしくは自分が見たものを残しておきたいと考えるのが撮影の願望の底にあるのだろう。

 実際はその写真、フィルム、動画ファイルさえも劣化して消えていく。その速度がいかに遅くてもやがては消滅する。人生よりは長い。しかし、見る方が変わってしまえば、たとえ写真が不変であっても違って見えてしまう。だから本当は過去の一時点を完全に保存するこは不可能だ。

 それでも私たちは写真や動画を撮りたがる。後でそれを見ることだけが目的ではないのかもしれない。いま、それを記録しようとしている行為そのものに生きがいを感じることが撮影の意味なのかもしれない。大量に撮影され、顧みられることがない映像をかつては無駄と感じることもあった。しかし、もしかしたら、無駄になる写真を撮ることが生きていることの証なのかもしれないと考え直している。

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