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教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。
知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。
教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。
残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。
学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。
