どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。
古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。
私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。
ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。
そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。
