古典の世界では親孝行が一つの普遍的テーマになっている。儒教の影響だろう。親孝行は無条件の命題だ。だから若い世代がいかなる犠牲をはらっても親に奉仕することが美徳とされている。
では実際にすべてがその理想にかなった人ばかりだったかといえばもちろん否である。孝行話が称揚されるということはそれだけ孝行をすることが困難であったことの裏返しであったはずだからである。姥捨伝承のような棄老伝説はそれが極端化したものであろうが、現実にはそこまではいかなくても完全な高齢者庇護が実現できるわけはあるまい。厳しい現実がこれまでもあったのだ。ただ孝行が社会全体の徳として認識され、実現できるか否かは別として行動規範として共有されていたことは事実だ。
それでも自然のなりゆきで老人が他界し、後継者がその後をつぐという人生の循環がなされているうちはよい。個々の人生には厳しい局面があるが、社会全体としては安定が保たれているのだから。現代の高齢社会のあり方を考えると、孝行するべき若い世代が極端に少なく、老いていく世代が多すぎる。孝行は理想を超えて、非現実的なファンタジーになっていく。もう孝行の幻想からは逃れなくてはならない。
近世の孝行譚を読んでいると共通するのは滅私の考え方である。自分の快楽を犠牲にしても親に尽くそうとする人の姿が描かれている。それを支えていたのは儒教的な精神環境だろう。今の私達にはその考えはない。それぞれの個人には幸福を追求する権利があると考えられ、誰かのために自分の人生を差し出すことは好まれない。これでは社会はバラバラとなり強者が弱者を踏み台にして利益追求をしていくことになる。現代生活はそれを具現化しているともいえる。
自己をなくさず、自分本位にもならないという選択はあるのだろうか。自分の幸せを追求することはすばらしいと考える段階ではこの道は開かれない。他人のことを考えるより、自分の将来を考えることに精一杯だからだ。
そのためには私達の考え方が進化しなくてはならない。個々人の幸せは一人の幸福追求では達成できないということを知識ではなく行動で実践できるようなるべきなのだ。地球環境の問題はそれを可視化する。自分さえ良ければいいと思ってやっていることが、やがて環境そのものを破壊し、自らの首を占めることになるのだ。
孝行の対象が自分の親だけではなく、地域や共同体、世界全体に及ぶようにしなければ私達は立ち行かないのだということを毎日の行動で示せるようにならなくてはならないのだろう。すでに知識としては獲得できている。しかし行動は別になっている。自分の人生をすべて捧げる必要はないがだれもが自分以外の存在のために何らかの行動を常に続けること。それができるようになれば、人類の歴史はまだ安泰かもしれない。多くの生物が進化に行き詰まり絶滅したことを考えると、人間が同じ轍を踏むことも考えられる。ただまだ分からない。
