社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。

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