思いやり

 ソーシャルディスタンスをどのように考えるのか。揺れてきているかもしれない。そもそも感染予防は誰のためなのかという問いを再考してみる。

 未曾有のパンデミックが人々を不安に陥れた昨年の状況においてソーシャルディスタンス(Social distancing)は日本では密閉・密集・密接をさけるとして「さんみつ」として人々の共通理解となっている。それは自らの感染を防ぐという意味でまずは認知されたはずである。日本のように社会性の強い国ではこれはそのまま社会の安定という発想につながった。自分が感染しないことは周囲に感染させないということであり、それが自らをふくむ家族・組織・共同体の利益になるという考えである。だから他国と比較して手指消毒・マスク着用がいち早く行われ、さらに普及率も高い。

 ところが、長く続けているうちにさまざまな解釈が行われ、この行動が変容してきている。初期にはアジア人は感染しにくいという根拠なき判断であり、最近は重篤化するのは高齢者か既往症を持つ人だけであり、若年層は感染しても軽症で済むというものである。いずれも科学的に証明はされていないようだが、ここまでの経験ではある程度あたっているかもしれない。そこで当初生まれた社会的な防疫という観点が薄れ、自分が感染しない、もしくは重篤化しなければいいという考え方が台頭してきているのだ。これは経済活動の維持論とも連動して強いものになっている。

 真実は分からない。ただ言えることは同じウイルスで死ぬ人がいてそれを防ぐために悪戦苦闘している人がおり、同じように働いていても日々労働の機会が奪われている人がいるということだ。その裏で自らは発症することなくキャリアーとなり、自らは現場に立つことなく利益を増やしている人々がいるにもかかわらず。

 自戒を含めて言うならば、人間は社会的な生き物として進化したことを忘れてはならないのではないか。自分が良ければいいという考えが結果的に破綻することを私たちはすべての学問、教育、経験で獲得していたのではなかったのか。あるいはもっと奥にある遺伝情報に組み込まれているのではないか。

 思いやりを持ちましょうというのは感情レベルで話されることが多い。しかし実はもっと切実なものなのかもしれない。私たちが生きていくうえで不可欠なスキルが実はこの日常語の中にあるのかもしれない。

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