生徒の作文を読んでいて論理的ではないと考えながらも見逃してしまうことがあります。それは読者である私が推測という行動を多めにはさんでしまっているからなのです。言葉を教える教員としては察してはならない。文章に関しては「忖度」は禁物という話です。
今後の国語教育の課題として自己表現力を高めるというものがあります。読解に偏重していた教育のあり方を表現に変えていくのは実はそう簡単ではありません。その方法、手順、そして評価方法などが確立していないからです。これについてはこれからも考えていきたい。このブログでもその一端を紹介することがあるでしょう。ただ国語教師としてやらなくてはならない大前提は物分かりのわるい人になる必要があるということです。
私たちがコミュニケーションをするときには、実際には言葉だけではなく身振り手振り、テンポ、間、声の調子などのノンバーバルな側面を総合的にとらえて相手の意思を判断しています。それが円滑なコミュニケーションの基本であり、特に口頭表現の技能においてはこの側面をもっと教えていくべきでしょう。ただ、文章表現に関してはあくまで文章の記述をとおして自己の意思をつたえるのが基本です。その作文のなかでは曖昧さは許されない時もあるのです。
生徒の作文で最近目立つのは表現の不十分さです。会話では前後関係から察することができるので敢えていわないということも、文章化するときには書かなければ誤解されるということがあります。特に目立つのは体言止めなどの最後まで言い切らない表現です。それが何なのか。何を言いたいのかを最後まで書かなければ誤解を生みます。日本語は打消し表現が最後に来ますので、最後にどんでん返しが可能です。文章で説明する時には断定の助動詞を使うまで言い切らなくてはならない。
教員が添削するときにそれを会話を聞くかのように読者側で想像してしまうのは作文教育に限ってはやめた方がいいのでしょう。誤解を生むあらゆる可能性を防ぐために物分かりの悪い読者になるべきなのです。まずはこれが生徒に表現教育をする大前提と考えています。
