付き合って考える時間を

 英語の4技能をいかに育成するかという議論が、大学共通テストの運営の問題でおかしな方向にそれつつあります。そしてそれ以前に母国語の4技能も怪しいのではないかという危惧も生まれています。

 PISAの試験結果によれば日本人の読解力の低下が懸念されるという結果が出たとのことです。国際比較試験はその測定方法に問題点も感じるので、その結果そのものが事実を反映しているのか否かについては慎重であるべきです。ただ、実感としても若年層のみならず、大人世代以降についても読解力の低下がもたらす弊害が随所で出てきている気がしてなりません。大きな原因は文章をしっかりと読む習慣が減りつつあることに相違ありません。

 日本の産業界の悪習として無駄な説明書を作りすぎるということがありました。その反省からいまは直観的に操作できる機械とか、説明なしに始めてしまう社会システムが優先されています。それはそれで素晴らしいことなのですが、個々人が説明を理解することなくなんとなく始めてしまうということが増えています。またその方法について話し合うとか教え合うということもあまりなされず、個々人の試行錯誤に任せるという風潮にあります。こうした中では文章を読んで理解したり、互いにコミュニケーションをして答えにたどり着くということが行われなくなります。自然と読解力、理解力の育成される場がなくなっていく状況にあります。そして、この方法を大人たちは子どもにもそのまま当てはめてしまっています。

 子どもたちの読解力低下をスマートフォンなどの情報機器のせいにするのは簡単ですが、それ以前に子どもにものを考えさせる機会を奪っている大人たちの責任も考えるべきではないでしょうか。情報さえ与えれば子どもはそれを勝手に理解できると勝手に考えている。そして、子どもの疑問に付き合い、ともに考え、答えのヒントを出していく過程を今の大人たちはほとんど放棄している。それが読解力とか話の内容を理解する力を身につける機会を奪っているのです。

 将来のこの国のあり方を真剣に考えるのならば、大人は子どもの置かれている学習環境にもっと関心を持つべきです。そして特にコミュニケーションの分野においては学校任せにせず、もちろんそれ以前に機械任せにせず、家族とか社会全体で将来の世界を担う人物を育てるという視点を持たなければならないでしょう。子どもたちに考えさせる時間・場所をそれぞれの立場で考えなくてはなりません。

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