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爽やか

 俳句で「爽やか」は秋の季題だ。気温、湿度とも適度になるこの時期を示す言葉となる。今年はずっとマスクを着けて生活しているせいか、本当の爽やかさを実感できない。

 おそらく様々な不安が秋晴れを素直に味わえない原因になっているのだろう。どんな青空も白い雲も気持ちまで晴らすことは難しい。いや、もっと大きな風景写真を見なければならないのかもしれない。都会の切り取られた空ではなく、もっと大きな枠組の空を見なければ。

 私はどんどん視野が狭くなる呪いを掛けられているに違いない。そんなふうに考えている。秋は爽やかなはずだ。秋の力に期待したい。

分析癖

 ヒットしたアイテムがあるとその理由を分析したくなる。何がよかったのかを要素に分けていちいち検証する。それは意味があるのだろうか。

 私は意味はあると考える。分析するとは自分なりの視点を持つことであり、詳しく観察する過程にあることだ。だからやるべきことである。そこに新しい発見がある可能性はある。

 ただ、いくら分析しても同じものは作れない。同じようなものも作るのは難しいだろう。様々な要素の組み合わせと相互作用によって物事はできあがっており、部品に切り離した時点でもうまったく別物になっているはずだ。

 学問でも日常生活でもこのことを時々思い出す必要がある。

疲れてくると

 疲労がたまると忘れてしまうことがある。その場を切り抜けることばかり考えてそれがすべてだと考えてしまうのだ。視界はどんどん狭くなり、息遣いが荒くなる。

 そのようなときは思い出さなくてはならない。いまどうして自分はここにいるのか。なんのために日々を送っているのか。それを今一度思い返すのだ。

 損失の多い日もあれば、良いことばかりの日もある。あるいは実際はそれほどでもなくてもそう感じることがある。疲れたときににはとかく下半分ばかりが気になる。でもそれがすべてではない。全体を見なくてはならない。

 私はときに私自身を遠くから見なくてはならないと考えている。

うまくやる

 物事を効率的に行うことは究極の目的かもしれない。無駄をなくせば様々な効果が発揮される。うまくやればいい結果が出る。至極当然の論理だ。

 しかし、うまくやるためには下手にやる経験も必要だ。失敗がなければ何が良いのかも分からない。頭で分かっているつもりになっていても、実はそうではないということはいくらでもある。

 失敗を許さないという最近の風潮はその意味で心配だ。ならばコンピュータに判断を任せて失敗を避けよという。するとますますうまくやることの実感が消えていき、全体の構造を俯瞰できなくなる。その結果、環境の変化に対応することはできなくなる。何よりも仕事の実感とかやりがいといったものが見えなくなる。

 せめて若いうちはうまくやれと言い過ぎない方がいいのかも知れない。古人の言うように失敗は成功のもとなのだから。

封じている何か

 感情は自発的なものであり、制御ができないものと考えられる。ただ、ある種の記憶に関してはそれが可能になることもあるようだ。

 大切な思い出の一つはいつまでも忘れられないもののはずなのに、思い出すことを封じているかのように出てこない。これは何かが自発の動きを制しているからなのだろう。そんなことは映画かドラマの中の虚構だと思っていたがそうでもないようだ。

 制していたものはいつか堰を切ることになる。そこには痛みもあるかもしれない。いまはそのことを恐れるのは止めておこう。いまを生きるための本能の技を信じていよう。

穏やかな朝

 最近、精神的な休みがなく少し疲れている。こういう時はすこし息抜きをした方がいい。ところがその息抜きの仕方を忘れてしまっている。

 そうだ、かつてこれをしたことがあった。ラフマニノフの交響曲2番を聴こう。確かにこれは効果がある。毎日の些細なことをしばしば忘れさせてくれる。有名な3楽章は特に一種の麻薬のような即効性がある。

 今日は久しぶりに何もない朝。しばらくは穏やかな幻想に浸ることにしたい。

10月

 昨日から10月が始まった。年度後半ということになる。日本では4月が年度の始まりだからだ。

 聞くところによるとOctoberは8番目の月という意味なのだそうだ。古代ローマでは3月に当たる月から一年が始まり、一年は10か月だったという。時間の基準というものは時代により、権力により変わってしまうものなのだ。

 私にとっては10月は通過点にすぎない。ただ、なにがしかの時間の折り目として区分を意識することもある。ちょっとした緊張感を得られたならば、それなりの意味はあるだろう。

遠景を見よう

 自己啓発のために書いている。どうも最近は極端な近視眼に陥っている。うまくいかないことの連続が心を砕いており、風景が灰色がかっている。それはあまりにも近いものばかりを見ているからだろう。

 スケッチブックを持って外に出よう。輪郭がはっきりしない遠景に目を凝らそう。そこから浮かび上がるものに夢を見よう。思い切って線を描き込もう。色を付けてしまおう。

 いま足りないのは次の筆を入れる勇気だ。間違ってもいい。世界を分けるラインを決めよう。自分の思う絵を描こう。

できないことは他で

 どうしてもいまはできないと思うことがある。それはできないと言いたいがいえない状況に置かれることも多い。できないことはできない。これは真実だ。

 こういう場合、私は強い劣等感に苛まれる。なぜできないのかと自分に詰問する。当然答えはない。

 もう一人の私が助け舟を出す。できないならばやらなくてもいい。君には向いていないんだ。やらない方がいいんだという。するとさらに別の私が逃げるのは卑怯だという。

 いろいろな自分がひとしきり言い合ったあと、結局できないことはできない。何か別のことをしようという具合になんとなくまとまる。長い時間をかけてようやく重い腰が上がる。残っていた自分の分身が歩き始める。

一度見た風景

 既視感というものがある。この経験はかつてしたことがあるというものだ。大抵は思い違いか類似した状況との混同ではないかと考えられる。しかし、程度のさこそあれ、私はこの錯覚で随分助けられている。

 新鮮な体験というものは言葉としてはそれはそれで魅力的な響きがある。ただし、実際にそれに直面するのは相当の覚悟と忍耐力がいる。どう対処していいのか分からないのは不安だからだ。

 そんなとき、これは過去に経験したことがあると考えること、もしくは思い込んでしまうことは、大きな安心に繋がる。傾向と対策は把握できていると判断することができるのだ。

 実際はどんなことも一度限りで同じことは二度と起きはしない。それを繰り返しと考えることは、生きるための知恵に属するものだ。過度な緊張から逃れ、つかの間の余裕を演出することで次のステップが得られるのだ。

 だから既視感を軽視することは止そうと思う。活用すべき幻想なのだから。