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国王の肖像

 上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。

 英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。

 写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。

 エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。

顔のない人物像

 先日、美術館で見た展覧会の絵の人物像にはなぜか顔の表情がはっきりと描かれていないものが大半でした。全体的に幻想的な画風であり、抽象絵画の趣さえ漂う筆致のため、さほど不自然ではありませんでした。顔のない人物像の持つ可能性を考えました。

 私たちは他人の感情、精神状態を視覚を通して判断することが多いのですが、そのかなりの部分に顔の表情という情報があります。喜怒哀楽は全身に表れますが、やはり表情ほど雄弁な部分はありません。その表情という重要な要素を敢えて省略することは画家にとっては大きなハンディのはずです。微笑んでいるひとを表情なしで表現することの難しさを考えるだけでもそれが察せられます。

 しかし、その負荷を敢えて負うことで拓けてくる可能性もあります。表情がない人物像を描くためにはボディランゲージに敏感にならなくてはなりません。また人物以外の要素、背景とか構図とかその他の要素に鋭敏になる必要性があります。そこで磨かれる表現力は大きな芸術性をもたらします。

 さらに、絵を鑑賞する側にも同様の効果があるはずです。不完全な描写の中に何を感じとることができるのかは見る側の想像力によります。その裏付けとなる人生経験そのものが問われることになります。

 表情を敢えて描かないという選択は画家にも鑑賞者にも大きな挑戦であり、可能性を秘めているのです。

それに見えてくる

 古代遺跡の人物塑像などを見ていると何とも稚拙なと感じることがあります。そしてそれが造形技術や空間把握の未熟に原因があると勝手に考えます。これを当時の人々はどのように捉えていたのでしょうか。

 古拙と感じるのはあくまで現代人の感覚であると想像されます。私たちは写真や3Dプリンターで現実のコピーを造ることができます。その視点から人間にすら見えない古代の美人像を見ても幼稚にしか見えません。これは恐らく現代人も将来同じ評価を数十年後の未来人から受ける可能性を示唆しています。

 例えば土偶ならば、どんなに精巧に作ったとしても土の塊であることには変わりません。それに美女なり勇者なり、豊饒な大地や広大な宇宙を感じるのは人間の想像力によるものです。古代の人々は我々から見れば稚拙に見えるものを、現実と重ね合わせる想像力を持っていたのです。

 その時代の人々のものの考え方に寄り添って考えることが、古いものを見るときには必要です。すると見えない何かが見えてくるはずなのです。