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経験知というもの

 ドキュメンタリー番組である地方の漁師は風雨の到来を山にかかる雲の色や形で予見するのだというのを知った。それが気象学的に裏付けられたとしても、漁師の判断はそれとは別に行われる。

 経験知という括りでは広すぎるが、理屈ではなく経験上の知恵として知っていることは実は多い。理論は後付けであり、幾度か修正されて現実に近づく。

 私がかつて住んでいた所では山がいつもよりはっきりと見えるときは雪が降る前兆ということだ。かなりの確率で当たり、その明瞭度が高ければ高いほど積雪が多かった。

 都会に住むようになってこうした体感的な知識の要素は著しく縮小してしまった。第一、空の様子とか、遠くの風景を眺めることが減ってしまった。人工物だけを見て毎日を過ごしている。天気はスマホの画面から確認する。現在の気温ですら肌で感じる前にスクリーンで確かめている。

 体感的な要素を失うことに不安を感じる。昨日と今日はかなり気温が高い。この時期、こういう日の後は天候が荒れて極端に寒くなりやすいということは感じている。これももはや他からの知識なのか経験知なのか分からなくなっている。でも、自ら感じ取ることはやはり大切だ。

記憶の作るもの

 私たちが世界を感じるとき、いま見ている現実とこれまでに経験したことの記憶との複合で概念を形成している。いまを見ていながら昔のことを考えているのだ。だから、その記憶が豊かであれば、感じ取れる世界は豊かであり、貧弱なものであれば毎日がワイルドなものになる。

 そのように考えると、いかに記憶というものが大事なものかと思い至るのである。記憶の前提となるのが経験であることは言うまでもない。豊かな経験を持つということはそれだけ豊富な記憶を持っているということになる。もちろんこの経験には自分が直接体験したこともあれば、書物や映像などを通して間接的に得た体験もある。

 記憶の特徴として、多くの場合、それが身体の感覚と結びついていることである。私は雪道で転倒し、顎を痛打した経験があるのだが、危機的な状況に陥ったときにその痛みをふと思い出すことがある。全身の神経が一斉に動き出す。それはまるでその時の痛みが再現されるかのようにである。

 こうした記憶の身体性とでもいうべきものは実は大切なものだと考える。私たちは記憶するとき、その内容をそのまま受け取っているわけではない。身体の一部やその延長にある過去の経験との複合で記憶を形成する。

 豊かな記憶を作ることが人生の目的ならば若い頃には様々な経験を積ませることに全力を尽くすべきだ。勉強させさえすれば人生の道が開けると考える親がいるのならば、考えを改めた方がいい。 

読解力向上の実感無し

 国際経済協力機構の実施する国際学習到達度調査で、日本の生徒の読解力が向上したとのニュースがあつた。これだけ読むと祝福すべきだろうが、現場の教員からすると大いなる疑問をもつ。ここでいう読解力とは何を意味するのだろう。

 短い時間の中で与えられた設問に解答する力を読解力というのなら、ある程度の教育の成果はあるのかもしれない。特にデジタルデバイスを活用して検索した内容を自分なりに纏める力は少し前の世代と比べて格段に向上している。

 でも、情報処理以上の読解となると覚束ない。検索可能なものを越え、思考と経験を積み合わせる行いは苦手のようだ。いまの世代には直接的な体験が欠けている。情報としては接していても実物を見たことがないのである。例えば昆虫なり、岩石なり手にしたことがあれば、そこから得られる刺激がある。それがないから、モンシロチョウの羽化も木星の衛星の運行も同じレベルで遠い存在なのだ。

 だから子どもの読解力が向上したと言われると疑問符しか思い浮かばない。むしろ、低下しているというのが私の実感である。

 小手先の読解力を上げるより、思考とは何かを考えたほうがいい。イノベーションはそういう体験の積み重ねなしには生まれない気がする。