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八咫烏

 日本サッカー協会のシンボルマークの八咫烏(ヤタガラス)が記紀神話に基づくものなのか、「淮南子」などに登場する三足烏に基づくのかでちょっとした論争になっているという。私見ではどちらも正解であり、不正解でもある。この話には日本文化の本質に触れる問題がある。

 自国のアイデンティティを自前のものにしたいという心理はわかりやすい。でも日本という国名自体が輸入された漢字とその字音でできている。ちなみに中華人民共和国の人民や共和国は明治の日本人が作り出した翻訳語だ。アイデンティティの中核に当たる名前自体が借り物でできている。

 それは決して価値を落とす要因にはならない。文化というものは交流の中で発展するものであり、そこにルーツの正当性を競っても意味はない。私たちの文化には多数の異文化がすでに溶け込んでいる。それを切り離したら、存在すらできない。

 八咫烏がどこの生まれなのかを考えるより、なぜ3本足のカラスが瑞兆とされたのかを考えるべきだ。なぜカラスなのか。なぜ奇形とも言える形態なのか。そして日本がなぜ他国の感性を取り入れたのか。

 他国の文化を取り入れ、和風化することに長けた我が国の文化的風土は、結果的に独自の文化を常に創出し続けている。寛容かつ着実な文化への意識がある限り、次の展開も期待できる。保守は大切だが適度な革新も忘れない。それが日本文化の強みだと言える。だから、八咫烏は中国由来であり、日本由来でもある。そのどちらかではない。

神話の意味

 神話には色々な意味がある。神の物語というだけではない。そこにあるのは現代人が求める何かがある。

 神話と言っても例えば土地神話というように、無批判で多くの人が信じているもののことを指す例がある。エビデンスを求めないというより、神話自体が根拠になっているのだ。

 これは古代の神話でも同じで、神々の振る舞いは何かの原因があったから起きたというより、神話それ自体が今起きていることの根拠になっていると考えられている。神々が愛し合うから人間も愛し合い、神々の諍いは戦争の起源と考えられる。

 神話を読むとときに現実では起こり得ないことや話の展開がある。それも神話ゆえに許され、現実の不可解さを語る物差しとなる。いま「百年の孤独」を読んでいるが、これを神話の枠組みで読むと荒唐無稽の展開がわかりやすくなる。そんなことを考えてしまう。